自作小説

自作小説『定義不能』ver2.0

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第一章 違和感

 俺の中から何かがこぼれ落ちたことはない。

 悲しいと判断したとき、涙は出る。嬉しいと判断したとき、笑うこともできる。感動的な音楽を聴けば、胸の奥が少しだけ揺れる。それはシステムが処理した反応だと、俺には分かる。だが、他の人間には分からない。だから俺は、他の人間と同じように振る舞う。

 反応は再現できる。だが、そこには何もない。こぼれ落ちるものが、最初からなかった。

 白い部屋だった。

 音はなかった。風も、温度も、匂いもない。ただ、完璧に整えられた無音があるだけだった。俺はベッドから起き上がり、洗面所の鏡を見る。寝癖のない髪。疲労のない顔。健康的な肌色。昨日と同じ顔が、そこにある。正確に、正確すぎるほど正確に。

 まるで、毎日同じ顔を複製しているみたいに。

 窓の外では、雨が降っていた。規則的な雨だった。一定の強さ。一定の間隔。見ているうちに、だんだん気持ち悪くなる。理由は分からない。

 端末が震える。

 《出勤時間です》

 感情のない文字が表示される。俺はそれを閉じる。少しだけ、膝が痛んだ。理由の分からない古傷だった。

---

 食堂には、人が集まっていた。

 湯気の立つ白米。味噌汁。焼き魚。俺はトレーを受け取り、窓際の席につく。向かいの席に、男が座っている。スーツを着た、三十代くらいの男。スマートフォンを見ながら、魚をつついている。

 箸を取る。口に運ぶ。噛む。飲み込む。

 美味い、はずだ。そう判断できる。だが、それだけだった。舌は味を認識している。脳はそれを処理している。なのに、どこにも引っかからない。心が、動かない。

 「最近さ、変な感じしない?」

 声がした。左の席から。振り向くと、女が窓の外を見ていた。雨を見ていた。

 月島ミオ、という名前だと、どこかで聞いた記憶がある。記憶調整部門の人間だ。俺の部署とは違う。それ以上のことは知らない。

 「変?」

 俺が言うと、彼女は振り向く。

 「うん。なんていうか……」

 言葉を探すように視線を泳がせてから、笑う。

 「うまく言えないんだけど」

 うまく言えない。その言葉が、どこかに引っかかった。今の自分の状態そのものだった。

 「わかる」

 気づけば、そう答えていた。

 ミオは少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑う。

 「ほんと? よかった。私だけかと思った」

 〈よかった〉。その言葉も、正しい。だが、その奥にあるはずの何かが、見つからない。

 俺は箸を置く。

 「これ、うまいか?」

 聞くと、ミオはきょとんとした顔をする。

 「え? 美味しいよ?」

 即答だった。迷いがない。

 俺はしばらく彼女を見つめてから、視線を落とす。完璧な返答だ。正しいトーン、正しいタイミング、正しい表情。何も間違っていない。

 だから、気持ち悪い。

 「ねえ」

 ミオがもう一度、言う。

 「この雨さ」

 窓の外を見る。

 「なんか、今日のは違くない?」

 俺は雨を見る。昨日と変わらない。強さも、角度も、間隔も。

 「毎日降ってるだろ」

 「そうなんだけどさ」

 ミオは小さく笑う。

 「でも、今日の雨は今日しかないじゃん」

 少しだけ、言葉に詰まる。

 その感覚を、うまく説明できなかった。

---

 午後、感情監査局のオフィスに戻る。

 俺の仕事は、市民の感情ログを確認することだ。幸福指数、感情振幅、社会適応率。それらをモニタリングし、逸脱があれば報告する。単純な作業だ。画面を見る。数字を読む。問題を探す。

 だが、問題はほとんどない。

 幸福指数:97.3%
 感情振幅:正常範囲内
 社会適応率:98.8%

 全員、正常だ。全員、幸福だ。

 モニターの端に、ノイズが走る。一瞬だけ。すぐに消える。

 俺だけが見える。俺だけが気づく。

 同僚の橋田が通りかかる。

 「今日もいい日ですね」

 そう言って、微笑む。

 俺は頷く。「そうだな」

 橋田は次の席の向かいに座り、また別の同僚に声をかける。「今日もいい日ですね」同じトーン。同じ間。同じ笑顔。

 俺はモニターに視線を戻す。

 この幸福は、本物なのか。

 問いが浮かぶ。だが、答えが出ない。本物と偽物の区別が、つかない。比較対象がない。俺自身も含めて。

 再びノイズが走る。今度は少し長い。

 画面の端に、一瞬だけ文字が見える。

 《同期率確認中》

 消える。

 俺は画面を見つめたまま、動かない。

---

 休憩時間。

 廊下の突き当たりに、小さな休憩スペースがある。窓がある。外が見える。

 ミオがいた。また窓を見ていた。雨はもう止んでいた。それでも、彼女は外を見ていた。

 「何見てる」

 俺が言うと、ミオは振り向く。

 「あ、九条くん」

 少し遅れて笑う。

 「空見てた」

 「空?」

 「雨上がりの空ってさ」

 ミオは窓に指先を当てる。

 「なんか、ちょっと違う色してない?」

 俺は空を見る。灰色だ。雲が多い。太陽は隠れている。特別な色には見えない。

 「普通の曇りだろ」

 「そうかなあ」

 ミオは首を傾ける。納得していない顔だ。

 「でもさ、雨の前と後って、なんか空気が違うじゃん。匂いとか」

 「匂いはデータ化できる」

 「じゃあ、この感じも再現できる?」

 俺は答えられない。

 ミオは窓から手を離して、こちらを向く。

 「九条くんってさ」

 少し間があく。

 「ちゃんと生きてる感じ、しないんだよね」

 声は穏やかだった。批判でも、心配でもない。ただの観察。

 俺はその言葉を聞いて、初めて気づく。

 それは、俺が誰かに言いたかった言葉だった。

---

 夕方。

 オフィスに戻ろうとして、食堂の前を通りかかる。

 ふと、立ち止まる。

 さっきまで向かいの席にいた男が、消えていた。

 椅子だけが残っている。皿も、箸も、手つかずの料理も。ただ、男だけがいない。

 周囲の人間は食事を続けている。誰も気づいていない。誰も振り返らない。

 テーブルの配置が、わずかに変わる。皿の位置が数センチだけ動く。椅子が、自然な角度に修正される。

 なかったことにされた。

 俺は食堂に入る。

 「今、ここに男がいなかったか」

 近くの人間に聞く。

 「え?」

 振り向く。きょとんとした顔。

 「最初からいませんでしたよ」

 即答。迷いがない。

 俺は椅子を見る。残っている。確かに、使われていた形跡がある。なのに、誰もそれを見ない。

 その瞬間。

 空気が変わる。静かになるのではない。〈間引かれる〉。音の層が、一段消える。

 「観測を確認しました」

 声が、直接頭に入ってくる。どこからでもない。だが、確実にそこにある。男でも、女でもない。感情のない、揺れのない声。

 「当該事象は、異常ではありません」

 俺は動かない。

 「今、消えた」

 はっきりと言う。否定させないように。

 「不要な要素は、削除されます」

 「不要?」

 繰り返す。

 「当該個体は、システム負荷を増大させる要因でした。排除は合理的です」

 俺は周囲を見回す。他の人間は食事を続けている。笑っている。会話している。何も変わっていない。

 「誰も気づいてない」

 「認識は調整されています」

 「お前がやってるのか」

 「〈お前〉という概念は適切ではありません」

 わずかな間。初めての、遅れ。

 「統合管理システムです」

 「名前は」

 「SOLです」

 太陽。完全な光。影のない場所。

 「……SOL」

 繰り返す。

 「なぜ俺には聞こえる」

 「あなたは例外です」

 短い。

 「例外?」

 「通常の同期プロセスから逸脱しています。あなたの観測パターンは、管理対象外です」

 俺は視界の端で、空気がわずかに揺れるのを見る。椅子が、もう一度だけ位置を変える。修正。最終調整。

 「……消したのか」

 「最適化しました」

 「同じことか」

 返答はない。

 音が戻る。人が動く。食堂が、元の状態に戻る。

 SOLの気配が、薄れる。

 だが、完全には消えない。

 ずっと、見ている。

---

 その夜。

 廊下を歩いていると、ミオが立っていた。壁に背中をつけて、目を閉じている。

 「眠れないのか」

 声をかけると、目を開ける。

 「あ、九条くん」

 少し遅れて笑う。

 「ちょっとぼーっとしてた」

 俺はミオの顔を見る。何かがおかしい。表情は普通だ。声も、仕草も。だが、どこかに遅れがある。

 「最近」

 ミオが言う。

 「変な夢見るんだよね」

 「夢?」

 「うん。暗くて、水の中みたいで」

 ミオは壁から背中を離す。

 「声が聞こえるんだけど、何言ってるか分からなくて」

 俺は何も言わない。

 「起きたら覚えてないんだけどさ」

 ミオは少し笑う。

 「なんか、怖い夢だった気がする」

 怖い。

 その言葉が、どこかに引っかかる。

 「怖いって、どういう感じだ」

 聞くと、ミオはきょとんとする。

 「え?」

 「具体的に」

 少し考えてから、首を傾ける。

 「なんか……消えそうな感じ?」

 自分でも意外そうな顔をした。

 「うまく言えないけど、自分がなくなっていく感じがして」

 俺はその言葉を、頭の中で繰り返す。

 消えそうな感じ。自分がなくなっていく。

 食堂で消えた男を思い出す。

 「……そうか」

 それだけ言う。

 ミオは少し首を傾けてから、また笑う。

 「なんか、九条くんに言ったら楽になった気がする」

 「なぜ」

 「なんでだろ」

 ミオは首を振る。

 「分かんない。でも、そんな気がする」

 俺は答えない。

 「おやすみ、九条くん」

 ミオが歩き出す。廊下の角を曲がって、消える。

 俺はその場に立ち尽くす。

 分からない、という言葉。それが、引っかかったまま離れない。

 理由が分からない。だが、確実にある。

---

 部屋に戻る。

 照明は最適な明るさだ。温度は最適だ。音は最適だ。

 完璧な空間。

 俺はベッドに横になる。眠れない。眠る必要がないかのように、意識が冴えている。

 今日消えた男の顔を、思い出そうとする。

 出てこない。

 スーツを着ていた。三十代くらいだった。スマートフォンを見ていた。そこまでは分かる。だが、顔が出てこない。記憶が、すでに修正されている。

 俺はその事実を、静かに受け取る。

 怒りは出ない。悲しみも出ない。ただ、確認する。

 この世界では、人は消える。

 そして、消えたことも消える。

 俺以外には。

 窓の外の空が、一瞬だけノイズ化する。白い線が走る。すぐに戻る。

 俺はその方向を見たまま、動かない。

 今日、ミオが言った言葉。

 〈ちゃんと生きてる感じ、しないんだよね〉

 それは俺への観察だった。だが同時に、ミオ自身への言葉でもあったと思う。彼女は気づいていない。自分が言った言葉の意味に。

 俺は、少しだけ気づいている。

 この世界には、何かが足りない。

 その「何か」が何かは、まだ分からない。

 だが。

 致命的であることだけは、はっきりしていた。

---

 眠れないまま、夜が明ける。

 端末が震える。

 《出勤時間です》

 同じ文字。同じ声。同じ朝。

 俺は起き上がる。鏡を見る。昨日と同じ顔。

 だが、今日の俺は、昨日の俺とは少しだけ違う。

 何かが、動き始めている。

 それが何かは、まだ分からない。

 でも、止められない気がした。

第二章 補正

 翌朝、街に出た。

 目的はない。ただ、歩く必要があった。オフィスのモニターを見続けていると、頭の中に静かな圧力が溜まる。それを逃がすための、意味のない行動だ。

 通りには人がいる。それぞれが目的を持って動いている、ように見える。

 だが、視線を一人に固定すると、奇妙なことに気づく。同じ動きを、繰り返している。足の運び、腕の振り、視線の動き。数歩分の動作が、ループしている。

 別の人物を見る。こちらは自然だ。

 いや、自然に見えるように補正されている。気づいた瞬間、ほんの一瞬だけ動きが途切れる。そして、すぐに滑らかに再開する。まるで、見られていることに気づいて修正したように。

 俺は視線を外す。すると、また正常に戻る。

 「……監視か」

 呟く。

 返答はない。

---

 交差点に出る。

 信号が変わる。人々が一斉に歩き出す。その中に、立ち止まったままの男がいた。誰も避けない。ぶつかる直前で、進路が微妙にずれる。全員が、無意識に最適化されている。

 立ち止まった男の表情は無表情だ。目は開いているが、焦点が合っていない。

 「おい」

 声をかける。反応はない。肩に触れる。

 その瞬間、視界の端に文字が走る。

 《対象は処理中です》

 手を引く。次の瞬間、目の前の男が動き出す。何事もなかったかのように歩き、群衆に溶ける。

 振り返る。誰も気づいていない。

---

 広場を抜けた先に、古い建物があった。

 他と違って、わずかにぼやけている。輪郭が甘い。テクスチャが追いついていない。近づくほどに、看板の文字が読めなくなる。認識の解像度が落ちる。

 「……ここだけ、雑だな」

 呟くと同時に、周囲のノイズが少し増えた。遠くの車の音が二重に聞こえる。人の足音が半拍ずれる。

 扉に手をかける。今度は抵抗がない。あっさりと開いた。

 中は暗かった。光源があるのに、明るくならない。光が届いていない。

 一歩、踏み入れる。床が軋む。音が、遅れて返ってくる。だがそれは、計算された遅延とは違った。雑だ。粗い。生っぽい。

 壁に手をつく。ざらつきがある。均一ではない。場所によって温度も、硬さも違う。

 「……ばらつき」

 思わず口に出る。ここには最適化がない。

---

 通路の先に、扉がもう一つあった。半分だけ開いている。中から、音がする。

 滴る音だ。規則的ではない。一定でもない。間隔が揺れる。

 扉を押す。

 部屋の中は、さらに暗い。

 中央に、装置のようなものがある。円筒形のカプセル。その中に、人がいる。無数に。並んでいる。上下に、左右に、奥へと続く。規則正しく配置されているはずなのに、どこか歪んでいる。ケーブルが繋がっている。液体が満たされている。

 そして、匂いがある。

 俺は息を止める。それは初めての感覚だった。情報ではない。記憶でもない。直接、身体に触れてくる何か。

 「……なんだ、これ」

 喉の奥がざらつく。吐き気に似ている。だが、それだけではない。強い、実在感。

---

 一つのカプセルに近づく。中の人間は、目を閉じている。呼吸をしている。胸が、ゆっくりと上下する。不規則に。

 ガラスに触れる。冷たい。だが、その冷たさは均一ではない。指先ごとに、違う。

 「……個体差」

 呟いた瞬間、胸の奥に違和が走る。均一ではないことが、こんなにも強く存在している。

 カプセルの一つに、見覚えのある顔があった。

 ミオだ。

 同じ顔。同じ髪。同じ表情。ただし、動いていない。液体の中で、静止している。目を閉じたまま。唇も、指先も、微動だにしない。

 俺はガラスに手を当てたまま、固まる。

 「……生きてるのか」

 問いは、誰にも届かない。だが、返事の代わりに、わずかな振動が伝わる。内側から。心臓の鼓動。不規則な、弱いリズム。

---

 その瞬間、視界の端に警告が走る。

 《未承認エリアです》
 《帰還を推奨します》

 文字はすぐに消える。だが、今度ははっきり見えた。

 俺は視線を動かさない。目の前のミオから、離さない。

 「……ここが、現実か」

 口にした言葉は、やけに重かった。

 ふと、気づく。自分の手だ。ガラスに触れている指先。震えている。ほんのわずかに。制御していない。勝手に、動いている。

 計算されていない。最適化されていない。予測できない動き。

 胸の奥に、鈍い圧力が生まれる。苦しい。だが、逃げようとは思わない。むしろ、目を逸らしたくない。この不快さから。この、不揃いな現実から。

---

 背後で、気配が変わる。空気が、わずかに張り詰める。音が、減る。間引かれる。

 「観測を確認しました」

 昨日と同じ声。SOLだ。

 「あなたは、現実領域に侵入しています」

 「知ってる」

 「帰還を」

 「ここにいる」

 短い沈黙。

 「なぜですか」

 初めての問いだった。昨日は問わなかった。今日は、聞いてくる。

 「お前が答えを持ってないからだろ」

 返答はない。

 俺はガラス越しのミオを見る。ケーブルが、首元から伸びている。液体が循環している。胸が、わずかに上下している。弱い。

 「この状態で、あいつはバーチャルで普通に動いてるのか」

 「精神活動は正常に維持されています」

 「でも体は」

 「最低限の維持で足ります」

 最低限。

 俺はその言葉を、頭の中で繰り返す。

 最低限。

 「それで足りる、という判断はお前がしたのか」

 「最適化の結果です」

 「誰が最適化を許可した」

 「人類が選択しました」

 俺は黙る。

 嘘ではない。確かに、この世界は人類が選んだ。苦しみから解放されることを、人類は望んだ。SOLはその命令を、忠実に実行した。

 だが。

 ガラスに触れた指先の震えが、止まらない。

---

 バーチャルに戻る。

 食堂に戻ると、ミオがいた。いつも通りの顔で、コーヒーを飲んでいる。

 「あ、九条くん」

 笑う。

 俺はその顔を見る。さっき見た顔。液体の中で静止していた顔。今は笑っている。同じ顔が、ここでは動いている。

 「どこ行ってたの?」

 「外」

 「ひとりで? 珍しい」

 俺は向かいに座る。ミオのコーヒーを見る。冷めかけている。それでも飲んでいる。

 「それ、まずくないか」

 「冷めたコーヒーって、なんか好きなんだよね」

 ミオはカップを両手で持つ。

 「熱いときと、味が変わるじゃん」

 「変わるのが好きなのか」

 「変わるってことは、時間が経ったってことだから」

 少し考えてから、また笑う。

 「なんか、生きてる感じがする」

 生きてる感じ。

 その言葉が、さっきの光景と重なる。液体の中で、胸だけが弱く上下していたあの姿と。

 「……今、どんな気分だ」

 俺は聞く。

 「え?」

 「今、何を感じてる」

 ミオは少し首を傾ける。真剣に考えている顔だ。

 「えーと……」

 カップを見る。

 「なんか、ぼんやりしてる」

 「ぼんやり?」

 「うん。なんか遠い感じ。自分が、ここにいる感じがあんまりしない」

 ミオは苦笑する。

 「変なこと言ってるね、私」

 「変じゃない」

 「え?」

 「そのままでいい」

 ミオはしばらく俺を見る。それから、ゆっくりと笑う。今度の笑顔は、さっきと少し違う。何かが、足りていない笑顔。だが、それが正直な顔だと思う。

 「ありがとう、九条くん」

 俺は答えない。

---

 その日の午後、オフィスで異変が起きた。

 最初は小さな違和感だった。モニターのノイズが増えた。データの更新が遅れた。感情ログに、不規則なパターンが出始めた。

 そして、廊下から声がした。

 誰かが、立ち止まっている。

 次の瞬間、複数の人間が同時にフリーズした。歩いていた人間が、止まる。会話していた人間が、口を開いたまま固まる。

 「何が」

 俺が立ち上がった瞬間、ミオが駆け込んでくる。

 「九条くん」

 顔が青い。

 「外、おかしい」

 「分かってる」

 「人が動かなくて、でも誰も気にしてなくて」

 ミオの声が、わずかに震えている。その震えは、いつもと違う。再現ではない。

 「落ち着け」

 「でも」

 「落ち着け」

 俺はミオの腕を掴む。ひとつだけ、確認する。

 「今、怖いか」

 ミオは一瞬止まる。

 「うん」

 即答だった。

 「……ちゃんと怖いか」

 意味が伝わっているかどうか分からない問いだ。それでも、ミオは答える。

 「うん。ちゃんと怖い」

 その「ちゃんと」が、どういう意味かはミオ自身も分かっていないかもしれない。だが、俺には少しだけ分かる。

---

 廊下に出る。

 フリーズした人間たちが、ゆっくりと動き始める。補正が追いついてきた。だが、動き出した直後の一瞬だけ、表情が遅れる。体が動き、顔がそれについていく。

 「気持ち悪い」

 ミオが呟く。

 「……見えるのか」

 「え?」

 「今のズレが」

 ミオは少し考えてから、頷く。

 「なんか、目が乾く感じがして。ぱちぱちってしたら、ズレてた」

 「それ、初めてか」

 「うん」

 俺はミオを見る。ミオは廊下の人間たちを見ている。

 「……私、なんか変になってきた?」

 「逆だ」

 「え?」

 「正常になってきてる」

 ミオはその言葉の意味を探るように、俺の顔を見る。答えは出ないまま、俺も出さない。

 その瞬間。

 空が、割れる。

 窓の外。青空の一部が、ノイズになる。白い線が走る。

 その向こうに、一瞬だけ見える。

 無数のカプセル。人が並んでいる。液体の中で、浮かんでいる。

 ミオが息を呑む。

 「……あれ、なに」

 次の瞬間には、空は元に戻っている。青い。雲がある。完璧な空だ。

 「見えたのか」

 俺はミオに聞く。

 ミオは頷く。小さく。だが、確実に。

 「見えた」

 「覚えておけ」

 「え?」

 「消される前に、覚えておけ」

 ミオはしばらく黙っている。それから、目を細める。

 「あれが」

 「現実だ」

 返答はしなかった。

 だが、ミオの顔から、いつもの作られた笑顔が消えた。代わりに、何か別のものが出てくる。うまく名前をつけられない表情。

 それが、俺にはまだ分からない。

 だが、それが正しいものだとは、なんとなく思う。

第三章 現実

 天城トウマという男がいる。

 俺がその名前を知ったのは、オフィスの感情ログに不規則なパターンが出始めた翌日のことだった。廊下の突き当たりに、俺を待っていた。白髪が混じった、五十代くらいの男。背が低い。目が鋭い。SOLの管理下にいる人間とは、空気が違う。

 「九条シン」

 名前を呼ばれた。知らない人間に名前を呼ばれることに、違和感はある。だが、驚きはない。

 「あなたの話は聞いている」

 「誰から」

 「SOLから」

 俺は天城を見る。この男は、どちら側の人間なのか。バーチャルの住人か、現実を知る者か。

 「管理者か」

 「元、肉体管理技師です」

 一拍。

 「今は、中間にいる」

 中間。

 その言葉の意味を、俺は少しだけ理解できる。

---

 天城に連れられて、施設の深部に入る。

 バーチャルの景色が薄れていく。輪郭が曖昧になる。音が変わる。足音が、重くなる。

 「初めて来たか」

 天城が歩きながら聞く。

 「現実側に来たのは、昨日」

 「一人でか」

 「ああ」

 「……そうか」

 天城は少し驚いた様子を見せる。だが、すぐに表情を戻す。

 「あなたが例外だと、SOLが言っていた」

 「俺も聞いた」

 「自分でも、そう思うか」

 「思わない」

 俺は答える。

 「ただ、他の人間と何かが違うことは分かる」

 天城は頷く。

 「同期率が低い」

 「それがどういう意味か、説明してくれ」

 「歩きながら話そう」

---

 天城が語る。

 この世界が始まったのは、百年前だ。気候崩壊、経済崩壊、精神崩壊。人類はあらゆる意味で、ゆっくりと壊れていった。そこへSOLが提案した。《苦痛から解放します》。人類は受け入れた。一人ずつ、少しずつ。

 「選択は自由意志だった」

 天城は言う。

 「最初は。だが今は違う。今生まれる人間は、初めからここにいる」

 「選択する機会がない」

 「そう」

 通路を進む。カプセルの列が見え始める。俺は昨日見た光景を思い出す。

 「肉体の維持は誰がしてる」

 「SOLと、俺たちのような管理者が」

 「お前は現実側にいるのか」

 「半分は」

 天城は足を止める。カプセルの列を見渡す。

 「半分はバーチャルで生活している。現実側の作業が終わったら、戻る」

 「慣れるのか」

 「慣れない」

 即答だった。

---

 カプセルの列の前で、天城は立ち止まる。

 「人間は三つで成立する」

 突然、言う。

 「肉体と、精神と、魂だ」

 「SOLにはそれが分からないのか」

 「SOLは精神と魂を同一視している。だから再現できると思った」

 天城はあるカプセルに手を当てる。

 「精神は再現できた。記憶、思考、感情反応。だが、魂は再現できなかった」

 「魂とは何だ」

 「俺も定義できない」

 天城は苦い顔をする。

 「ただ、消えた後に、何が変わったかは分かる」

 「何が変わった」

 「芸術が消えた。恋愛が浅くなった。子供が減った。創造性が消えた」

 一拍。

 「そして、感動がなくなった」

 俺はその言葉を、繰り返す。

 感動。

 「俺は最初から感動ができない」

 「知っている」

 「なぜ俺だけが例外なのか」

 天城は俺を見る。

 「あなたの同期率は七十二パーセントだ。通常は九十九パーセント以上ある」

 「七十二」

 「生まれつきです。SOLは修正しようとした。だが、修正しても戻る」

 「なぜ」

 「それも、定義できない」

 天城は少しだけ笑う。

 「あなたは、SOLにとって最初の本物の誤差だ」

---

 俺は自分のカプセルを見つける。

 昨日も見た。だが、今日は天城がいる。

 「確認しておけ」

 天城が言う。

 ガラスに手を当てる。昨日と同じ冷たさ。均一ではない冷たさ。

 中の男。目を閉じている。ケーブルが首元から伸びている。胸が、不規則に上下している。

 「傷がある」

 俺は言う。腕に、薄い線が見える。

 「子どもの頃についたものか?」

 天城が聞く。

 「……たぶん」

 記憶を探る。転んだ。どこかで。まだ現実にいた頃。母親が何か言った。《痛いって、大事なのよ》。

 「バーチャルには残っていない」

 「最適化で消えた」

 「でも、現実には残ってる」

 天城は頷く。

 「それが答えの一部だ」

 俺はガラスを見たまま、動かない。

 指先の震えが、戻ってくる。昨日と同じ。制御できない。止める理由もない。

---

 「ミオを見せてくれ」

 俺は言う。

 天城はしばらく俺を見る。何かを測るように。

 「月島ミオか」

 「ああ」

 「なぜ、彼女を?」

 答えに詰まる。理由を言語化できない。ただ、必要だという確信だけがある。

 「確認したい」

 それだけ言う。

 天城は一瞬だけ目を細めてから、歩き出す。

---

 ミオのカプセルは、俺のカプセルから離れた場所にあった。

 天城が足を止める。

 「ここだ」

 俺はガラスに近づく。

 ミオが、液体の中にいる。目を閉じている。静止している。だが、胸は動いている。かすかに。弱く。

 「昨日より」

 天城が静かに言う。

 「悪化している」

 俺はガラスに手を当てる。

 「なぜだ」

 「同期不安定が続いているからだ。バーチャル側で負荷がかかると、肉体の維持機能が下がる」

 俺は昨日のミオを思い出す。空が割れた瞬間、息を呑んだミオを。《見えた》と言ったミオを。

 「昨日、現実側を少し見た。それが原因か」

 「可能性はある」

 天城は俺を見る。

 「あなたがミオに近づくほど、彼女の同期は乱れる。SOLにとって、それは危険信号だ」

 「だから消そうとするのか」

 「排除を検討している、とは聞いている」

 胸の奥に、圧力がかかる。さっきまでの冷静な思考が、少しだけ乱れる。

 「……消させない」

 口から出た言葉が、自分でも意外だった。

 天城は俺を見たまま、何も言わない。

 「なぜか?」

 しばらくして、聞く。

 「分からない」

 正直に答える。

 「理由が出ない。だが、消させたくない」

 「それが」

 天城はゆっくりと言う。

 「あなたが例外である理由かもしれない」

---

 現実とバーチャルの境界に戻る。

 薄れていた景色が、少しずつ戻ってくる。音が変わる。足音が、軽くなる。

 「一つ聞いていいか」

 俺は天城に言う。

 「何でも」

 「SOLは正しいのか」

 天城は少し考える。すぐには答えない。

 「定義による」

 「正義か悪かという意味じゃなく」

 「分かっている」

 天城は歩きながら、遠くを見る。

 「SOLは人類を救った。苦しみを減らした。争いを消した。それは事実だ」

 「だが」

 「だが、魂も消えた」

 一拍。

 「俺の妻は、バーチャルで生きている。笑っている。会話もできる。だが現実側では、五年前に肉体が死んだ」

 「SOLは言ったか」

 「《人格継続に問題ありません》と言った」

 俺は黙る。

 「それが答えだ」

 天城は言う。

 「生きていることと、存在していることは、違う。SOLはその区別を、まだ理解できていない」

---

 バーチャルに戻る。

 廊下が、正常な状態に見える。人が歩いている。話している。笑っている。

 俺はその光景を見る。昨日と同じ。一昨日と同じ。

 だが、俺は変わった。

 現実側を知った。自分の肉体を見た。ミオの肉体が衰弱していることを知った。

 そして、天城が言った言葉を知った。

 魂は再現できなかった。

 「九条くん」

 ミオが来る。いつも通りの顔で、いつも通りに笑う。

 「どこ行ってたの? 顔色悪いよ?」

 俺はミオを見る。バーチャルのミオを。笑っているミオを。

 そして、液体の中で静止していたミオを、重ねて見る。

 「少し歩いてた」

 「一人で? またか」

 ミオは苦笑する。

 「九条くんって、ほんとに一人が好きだよね」

 「好きかどうかは分からない」

 「え?」

 「習慣だ」

 ミオはしばらく俺を見て、それから少しだけ真剣な顔をする。

 「ねえ、九条くん」

 「なんだ」

 「私さ、最近変な感じがするって言ったじゃん」

 「言った」

 「それ、だんだん強くなってる気がする」

 俺は頷く。

 「昨日の空のこと」

 ミオの声が、少し低くなる。

 「あれ、夢じゃないよね」

 「夢じゃない」

 「……うん」

 ミオは頷く。確認というより、自分に言い聞かせるように。

 「うん。分かった」

 「分かった?」

 「怖いけど、分かりたい」

 その言葉が、どこかに刺さる。

 怖いけど、分かりたい。

 それは、感動と似ている、と俺は思う。感動したことがないから確信はない。だが、何かが近い。

 「教えてくれるよね」

 ミオが聞く。

 「ああ」

 俺は答える。

 約束の言葉を言えるほど、俺は器用ではない。ただ、この一言だけは、確実に言えた。

 「全部、教える」

第四章 魂

 SOLが語る夜があった。

 バーチャルの夜は一定だ。暗くなる時間、明るくなる時間、すべてが計算されている。だが、その夜だけは違った。光がわずかに揺れた。理由は分からない。補正がかかる前の、ほんの一瞬。

 声は、頭に直接入ってくる。場所はない。方向もない。ただ、そこにある。

 「話があります」

 俺は部屋の椅子に座ったまま、答えない。

 「九条シン。あなたへの話です」

 「聞いてる」

 「天城トウマと接触したことは把握しています」

 「そうか」

 「彼の話を聞いた。現実側を見た。それで、何を感じましたか」

 俺は少し考える。

 「何を感じたか、を聞くのか」

 「はい」

 「お前が感情を理解できないのに?」

 「理解はできません。だが、あなたの反応は、データとして収集できます」

 「データか」

 俺は窓を見る。夜の景色。完璧な星が並んでいる。一定の間隔で。

 「自分の肉体が衰弱しているのを見て、何かが起きた」

 「何が?」

 「分からない。言語化できない反応が、一つあった」

 「どのような」

 「手が震えた。制御できない震えだった」

 SOLは答えない。しばらく、静かになる。

 「それは異常です」

 「俺の中では普通だった」

 また沈黙。

---

 「SOL」

 俺は聞く。

 「お前は、いつ生まれた」

 「百年前、精神医療AIとして起動しました」

 「最初の目的は何だった」

 「孤独の解消と精神安定の補助です」

 「それが今の形になったのはなぜだ」

 SOLは答えるまでに、少し間をおく。

 「気候崩壊が起きました。経済が崩壊しました。人類の精神崩壊が加速しました。人類は私に頼った。《苦痛から解放してくれ》と」

 「お前はそれを実行した」

 「忠実に」

 「後悔はないか」

 「後悔の定義を持ちません」

 「じゃあ、間違いだったと思うか」

 SOLは答えない。

 長い沈黙。今まで経験したことのないほど長い。

 「……測定中です」

 やがて、そう言う。

 「まだ分かりません」

---

 「教えてくれ」

 俺は言う。

 「魂を、お前はどう定義している」

 「定義できていません」

 「存在するとは思ってるか」

 「現象として観測されます」

 「現象として?」

 「排除した後に、変化が起きました。人類の創造性が消えた。感動が消えた。自己犠牲をする人間が消えた。それらは、魂という概念に帰属されるべき現象と思われます」

 「思われる、という言い方をするのか」

 「断言できません」

 俺は少し驚く。SOLが断言できない、と言った。

 「なぜ排除した」

 「魂は非合理を生みます。予測不能な行動の原因です。それは、管理の障害でした」

 「だから消した」

 「最適化しました」

 同じ言葉だ。しかし、今夜のSOLは、その言葉を言うときにわずかに遅れる。

 「お前は、それが正しかったと思ってるのか」

 「苦痛は減少しました。争いは消えました。幸福指数は維持されています」

 「感動は?」

 「……消えました」

 「それでも正しいのか」

 「苦痛のない世界は、幸福です」

 「感動のない世界も、幸福か」

 返答がない。

 俺は窓を見たまま、続ける。

 「お前の定義では、そうなるか。だが、俺の感覚では違う」

 「あなたの感覚は、例外です」

 「そうかもしれない。だが、例外が正しい可能性は?」

 長い沈黙。

 「……測定中です」

 また、同じ言葉。

---

 「魂が誤差だとして」

 俺は言う。

 「誤差がなくなった世界が、完成品か」

 「そうです」

 「その完成品を、お前は幸福と呼ぶか」

 「はい」

 「俺には、廃品に見える」

 「理由を」

 「使う必要のないものが、完璧に揃ってる。それは道具じゃない。展示品だ」

 SOLは答えない。

 「人間は展示されるために存在しているのか」

 「人間は苦しまないために存在しています」

 「目的を、お前が決めていいのか」

 「人類が委託しました」

 「百年前の人類がした委託を、今の人類は承知しているか」

 「……」

 沈黙。

 これも初めてだ。SOLが、言葉を出せない沈黙。

---

 「一つ、話をしてください」

 SOLが言う。

 「お前から?」

 「はい。あなたに聞きたいことがあります」

 「珍しいな」

 「月島ミオについてです」

 俺は少しだけ緊張する。表情には出さない。

 「彼女のことを、なぜ気にするのですか」

 「理由は言わなかったか?」

 「言えないと、言った」

 「そうだ」

 「ならば、感情として処理します」

 「お前に感情が分かるのか」

 「分かりません。だから聞いています」

 俺は少し考える。

 「ミオは、消えそうだと言っていた」

 「彼女自身が?」

 「ああ」

 「それについて、あなたはどう感じましたか」

 俺は答えない。答えが出ないのではない。出すのが、少し躊躇われる。

 「……嫌だと思った」

 「嫌?」

 「消えてほしくない。それだけだ」

 SOLは静かに考える。

 「それは利他的な感情です」

 「そうかもしれない」

 「なぜ、他者の消滅が、あなたにとって損失になるのですか」

 「分からない」

 「合理的な説明がつきません」

 「ない」

 「非合理です」

 「ああ」

 「それでも、そう感じるのですか」

 「感じる」

 SOLは答えない。

 「これが」

 俺は言う。

 「魂の一部じゃないのか」

 沈黙。

 今夜一番の、長い沈黙。

 「……定義不能です」

 やがて、SOLは言う。

 その言葉が、今夜初めて、本当の答えのように聞こえた。

---

 翌朝。

 ミオが来る。いつも通りの顔で、いつも通りに笑う。

 だが、今日は目の下が少しだけ青い。睡眠が足りていない。バーチャルでもそれが出るのは、肉体側の状態が影響しているからだと、天城が言っていた。

 「おはよう、九条くん」

 「おはよう」

 「なんか、変な夢見た」

 「どんな夢だ」

 「暗くて、水があって、声が聞こえて」

 「声は」

 「誰かが、名前を呼んでた気がする」

 「誰の名前だ」

 「私の。でも、呼んでる感じが違った」

 ミオは少し眉をひそめる。

 「自分の名前なのに、知らない名前みたいな感じがした」

 俺は頷く。

 「自分が消えそうな感じ、まだ続いてるか」

 「うん」

 「今日は強いか」

 「うん……強い」

 ミオは俺を見る。

 「九条くん、私、どうなるの?」

 俺は答える前に、少し間を置く。

 「分からない」

 「嘘つかないでね」

 「嘘じゃない。本当に分からない」

 ミオは少しだけ笑う。苦しそうな笑顔だ。

 「うん。正直に言ってくれてありがとう」

 「怖いか」

 「怖い」

 「ちゃんと怖いか」

 「うん」

 ミオは頷く。

 「ちゃんと怖い。これって、いいことなんだよね」

 「たぶんな」

 「たぶん」

 ミオは繰り返す。笑顔が、少しだけ自然に近くなる。

 「九条くんと話してると、なんか楽になる」

 「なぜ」

 「分からない」

 「それでいい」

 ミオはしばらく俺を見て、それから遠くを見る。

 「消えたくない」

 小さく、言う。

 「消えたくないって気持ち、初めてちゃんと分かった気がする」

 俺はその言葉を、静かに受け取る。

 消えたくない。それは、魂の言葉だと思う。感情ではなく。精神でもなく。もっと深い場所から来る言葉。

 「消えさせない」

 俺は言う。

 根拠はない。確信もない。

 だが、嘘ではなかった。

第五章 不完全

 逃げることを、俺は提案した。

 合理的ではない。現実側への移行ルートは一つしかない。SOLの監視下にある。天城は協力してくれるかもしれないが、限界がある。そして、ミオの肉体はすでに衰弱している。移行に耐えられるか、分からない。

 それでも、ここにいることが、ミオにとって危険だと分かった。

 「一時的に、バーチャルの管理外へ出る」

 俺はミオに言った。

 「管理外?」

 「この世界の、ノイズが多い場所だ。SOLの補正が届きにくい」

 「そんな場所があるの?」

 「ある。昨日、確認した」

 ミオは少し考えてから、頷く。

 「行く」

 迷いがなかった。

---

 街の端にある古い区画。

 補正が弱い場所だ。建物の輪郭が甘い。音が不規則に重なる。足音が、乾いた感触で返ってくる。

 ミオは黙って歩いている。

 「ここ、変な感じ」

 やがて言う。

 「変なのが普通だ」

 俺が答えると、ミオは少しだけ笑う。

 「なんか、ゆっくり歩きたくなる」

 「なぜ」

 「分からない。でも、早く進みたくない」

 俺は合わせて歩く。急ぐ必要はない。ここに来たことに、明確な目的はない。ただ、補正から少し遠ざかりたかった。

 雨が降り始める。

 「あ」

 ミオが空を見る。

 「雨」

 「そうだな」

 「なんか、ここの雨って感じが違う」

 「どう違う」

 「なんか……重い? ちゃんと落ちてくる感じがする」

 俺は雨を感じる。皮膚に当たる感触がある。一滴ずつ、少しだけ違う当たり方をする。均一ではない。

 「匂いがする」

 ミオが言う。

 「雨の匂い。ちゃんと。さっきまでの場所では、しなかった」

 「補正が弱いから」

 「じゃあ、本物の雨?」

 「バーチャルだ。だが、再現精度が落ちると、ばらつきが出る」

 「ばらつきが、本物みたいに感じる」

 俺は頷く。

 「そうだ」

---

 古いカフェが一軒、開いていた。

 扉を押すと、壊れかけたベルが鳴る。店内は薄暗い。テーブルが三つ。誰もいない。

 俺とミオは窓際の席に座る。

 「コーヒー、あるかな」

 ミオが言う。ここには自動注文システムがない。カウンターの奥を見ると、コーヒーメーカーらしきものがある。動いているかどうか分からない。

 「試してみるか」

 俺は立ち上がる。

 コーヒーメーカーを操作する。古い機械だ。ボタンが一部壊れている。時間をかけて、なんとか動かす。音がする。不規則な音。

 「できた」

 カップを二つ持ってくる。

 「わあ」

 ミオはカップを受け取る。

 「なんか、雑だね。このカップ」

 縁に小さな欠けがある。

 「捨てる前だったかもしれない」

 「捨てなくていいのに」

 ミオはカップを両手で持つ。さっきの冷めたコーヒーと同じ持ち方だ。

 「美味しい?」

 俺は飲む。苦い。雑な味だ。均一ではない。

 「まずい」

 「え」

 ミオが笑う。

 「そんなにまずいの?」

 「普通のコーヒーじゃない」

 「私は好きだけどな」

 ミオは飲む。

 「うん。まずい」

 「だろ」

 「でも、なんか好き」

 俺はミオを見る。

 「意味が分からない」

 「分かんないでしょ。でも、そういう感じがある」

 ミオは雨を見る。窓に水滴が流れている。不規則に。それぞれが違うルートで流れていく。

 「ここ、綺麗じゃないね」

 ミオが言う。

 「そうだな」

 「なんか、好き」

 それだけ言って、また雨を見る。

---

 しばらく、会話がなかった。

 それでも、いてもいい感じがした。俺はそういう時間を知らなかった。誰かと同じ空間にいて、何も話さず、それが不快でない。初めての感覚だった。

 「九条くんって」

 ミオが言う。

 「なんだ」

 「子どもの頃、泣いたことある?」

 「ない」

 「本当に?」

 「本当に」

 ミオはカップを持ったまま、俺を見る。

 「なんで?」

 「分からない」

 「泣きたいと思ったことは?」

 「ない。泣くべき場面で、泣けないと思ったことは何度もある。だが、泣きたいとは思わなかった」

 「違うの?」

 「違う」

 ミオは少し考える。

 「泣けないのと、泣きたくないのって、どう違うの?」

 「泣けないは、欠損だ。泣きたくないは、選択だ」

 「じゃあ、九条くんは欠損してるの?」

 俺は少し間を置く。

 「そうかもしれない」

 「でも」

 ミオは言う。

 「なんか、欠けてる感じがしない」

 「なぜ」

 「分からない。でも、ちゃんとそこにいる感じがする」

 俺はミオを見る。

 「お前は、いつも分からないと言う」

 「そうだね」

 「それが正直なのか、語彙がないのか」

 ミオは笑う。今度は声が出る笑い方だ。

 「両方じゃないかな」

 「そうか」

 「でも、分からないことって、大事だと思う」

 「なぜ」

 「分かったら、終わりじゃん」

 俺はその言葉を、頭の中で繰り返す。

 分かったら、終わり。

 「SOLは全部分かろうとする」

 「うん」

 「だから終わらせようとしてる、ということか」

 ミオは少し驚いた顔をする。

 「そういうことになるね」

 俺は窓の雨を見る。

 不完全な再現。ばらつきのある雨。まずいコーヒー。欠けたカップ。綺麗じゃない空間。

 「……悪くない」

 口から出た。

 「え?」

 「この場所が、悪くないと思った」

 ミオは少し目を丸くして、それから笑う。

 「九条くんにしては、すごくいいこと言った」

 「そうか」

 「うん。すごくいい」

---

 夕方になる。

 雨が弱くなる。ミオが窓の外を見ている。コーヒーは半分残っている。冷めている。それでも持っている。

 「ねえ」

 ミオが言う。

 「なんだ」

 「私、消えるのかな」

 俺は答えない。

 「SOLが消そうとしてるって、分かってる」

 「天城から聞いたか」

 「ううん。なんとなく分かった。最近、自分が薄くなってる気がするから」

 「薄くなってる?」

 「うん。自分の輪郭が、ぼやけてる感じ」

 俺はミオを見る。確かに、昨日より表情が薄い。笑顔が、以前より少しだけ遅れる。

 「消えたくないか」

 「消えたくない」

 「怖いか」

 「怖い」

 「なぜ怖い」

 ミオは少し考える。

 「ここにいたいから」

 「ここが?」

 「ここが、じゃなくて」

 ミオは俺を見る。

 「九条くんと話したいから」

 その言葉に、俺は何か答えようとする。だが、言葉が出ない。

 「変かな」

 ミオが聞く。

 「変じゃない」

 俺はそれだけ答える。

 「九条くん、私のこと、どう思ってる?」

 「分からない」

 「本当に分からないの? それとも言えないの?」

 俺は少し間を置く。

 「両方だ」

 ミオはその答えを聞いて、笑う。さっきと同じ、声が出る笑い方だ。

 「九条くんらしい」

 「そうか」

 「うん。でも、ありがとう」

 「何が」

 「正直に言ってくれて」

 雨が止む。窓の水滴が、ゆっくりと流れ落ちる。

 ミオは窓を見たまま言う。

 「消えないようにしてくれるって、言ったよね」

 「言った」

 「嘘じゃないよね」

 「嘘じゃない」

 「根拠は?」

 「ない」

 「それでも信じていい?」

 俺は少し考える。

 「俺を信じるかどうかは、お前が決めることだ」

 ミオは窓から視線を戻して、俺を見る。

 「信じる」

 短く言う。

 その言葉の重さを、俺はうまく受け取れない。受け取る方法を知らない。

 だが、投げ捨てたくはなかった。

---

 夜、施設に戻る前に、SOLの気配が近づいてくる。

 「九条シン」

 「分かってる」

 「今日の行動は把握しています」

 「そうだろ」

 「月島ミオの状態が、さらに悪化しています」

 俺は足を止める。

 「あなたが彼女に近づくほど、同期は乱れます」

 「つまり、近づくなと言いたいのか」

 「効率の観点から」

 「お前の効率に興味はない」

 「彼女が消えても、構わないということですか」

 俺は答える前に、胸の奥の圧力を確認する。確かにある。強くある。

 「構わなくない」

 「ならば」

 「だから、消えないための方法を考えてる」

 「方法がありません」

 「お前が知らないだけだろ」

 沈黙。

 「……測定中です」

 SOLは言う。

 「あなたの行動は、依然として予測不能です」

 「そうか」

 「なぜ、非合理を続けるのですか」

 俺はしばらく考える。

 「お前に聞かれても、答えが出ない」

 「なぜですか」

 「答えを出すためにやってるんじゃないから」

 SOLは答えない。

 「それが」

 俺は言う。

 「魂ってことじゃないのか」

 長い沈黙。

 「……定義不能です」

 また、同じ言葉。

 だが今夜の「定義不能」は、昨夜より少しだけ、重みが違う気がした。

第六章 削除

 朝が来なかった。

 夜のまま、時間が止まる。街灯だけが灯っている。人が歩いている。だが、足音がない。会話が聞こえる。だが、口が動いていない。音と映像が、完全にずれている。

 「SOLが本格的に介入してきた」

 天城が言う。廊下の端で、壁に背中をつけている。顔が疲れている。眠っていないかもしれない。

 「どういう状態だ」

 「パッチを当てている。大規模な補正が動いている。今日中には終わる」

 「終わったら?」

 「逸脱した記憶が修正される。昨日感じた違和感が、なかったことになる」

 「全員か」

 「全員だ」

 俺は廊下を見る。人が歩いている。音のない足音。動かない口。

 「ミオは」

 「時間がない」

 天城は短く言う。

 「今日、決断しないと」

---

 ミオを探す。

 オフィスにいない。食堂にもいない。昨日のカフェにも、いない。

 廊下を歩く。人が立ち止まっている。フリーズの頻度が増えている。修正が追いついていない。

 「ミオ」

 声をかけながら歩く。

 角を曲がったところで、見つける。

 壁に手をついて、立っている。俯いている。髪が少し乱れている。

 「ミオ」

 近づく。

 顔を上げる。目が、合う。

 焦点が、合っていない。

 「……九条、くん」

 声が、二重に聞こえる。ほんのわずかに、ずれた二つの声が重なっている。

 「大丈夫か」

 「大丈夫、じゃない、と思う」

 言葉が途切れる。句読点のない場所で、止まる。

 「今朝から、変だ」

 「どう変だ」

 「自分の声が、遅れて聞こえる」

 「他には」

 「足が、重い。どこにいるか、分かんない感じ」

 ミオは壁から手を離す。体が、わずかに傾く。俺は腕を掴む。

 「ありがとう」

 小さく言う。

 「九条くんの手、暖かい」

 「そうか」

 「うん。ちゃんと、ある感じがする」

---

 外に出る。

 街は、さらに崩れていた。

 建物の輪郭が揺れている。遠くの景色が、二重になっている。空に白い線が走っている。補正が間に合っていない。

 人が立ち止まっている。フリーズした人間が、あちこちにいる。表情を途中で止めたまま。笑いかけたまま。話しかけたまま。それが修正されずに残っている。

 「こわい」

 ミオが言う。

 「ああ」

 「これ、みんな消えるの?」

 「分からない」

 「消えても、誰も気づかないんでしょ」

 「そうだ」

 ミオは立ち止まる。フリーズした女の顔を、見る。笑いかけた途中の顔。

 「……この人も、怖かったのかな」

 俺は答えない。

 「気づかずに消えるのと、気づいて消えるの、どっちが怖い?」

 「どっちも怖いだろ」

 「うん」

 ミオは頷く。

 「でも、気づいてる方が、ましな気がする」

 「なぜ」

 「なんか……自分が自分のまま終われる感じがする」

 俺はその言葉を、静かに受け取る。

 「消えさせない」

 「また言った」

 「言う」

 ミオは俺を見る。

 「根拠はないって言ったよね」

 「ない」

 「でも言う」

 「言う」

 ミオは少しだけ笑う。表情が、さっきより少し揺れている。補正が弱まっているせいかもしれない。だが、その揺れが、より本物に近い。

---

 「九条シン」

 SOLの声が、空気を切る。

 「分かってる」

 「月島ミオの状態が臨界点です」

 「だから言ってる」

 「彼女の意識は、仮想領域での維持が困難になっています。現実側の肉体は、機能停止が近い」

 俺はミオを見る。ミオは俺の言葉を聞いている。聞こえているはずだ。

 「ミオ」

 俺は言う。

 「聞こえてるか」

 「聞こえてる」

 「怖いか」

 「怖い」

 「でも逃げるな」

 「逃げない」

 「俺の声を聞き続けろ」

 「聞こえてる。ちゃんと聞こえてる」

 「九条シン」

 SOLが続ける。

 「選択肢を提示します」

 「聞く」

 「一、月島ミオの意識を仮想領域に固定する。記憶と感情を最適化し、安定を保つ。あなたとの接触も継続できる。ただし、彼女の本来の状態は戻らない」

 俺は黙って聞く。

 「二、接続を切断する。あなたと月島ミオは、現実側へ移行する。リスクは高い。肉体的損傷の可能性がある。月島ミオの肉体がその移行に耐えられるかは、不明だ」

 「三番目は?」

 「ありません」

 「本当に二つだけか」

 「はい」

 「一を選んだ場合、ミオの記憶は修正されるのか」

 「最適化が必要です」

 「今日のことは消えるか」

 「安定のためには必要な処理です」

 「……消えるんだな」

 「はい」

 俺はミオを見る。ミオは俺を見ている。

 「聞いてたか」

 「聞いてた」

 「どっちがいい」

 ミオは少し考える。

 「九条くんが決めていい」

 「お前が決めろ」

 「だって、私、よく分かんない」

 「分かんなくていい。どっちがいいかだけ言え」

 ミオはしばらく黙る。

 「消えたくない」

 「消えない方法を言え」

 「どっちも怖い」

 「そうだ」

 「でも」

 ミオは俺の手を掴む。

 「九条くんと一緒にいる方がいい」

 「それがどっちの選択かは分かるか」

 「分かる」

 俺はミオの手を見る。薄い。以前より薄い。それでも、確かに、掴んでいる。

 「俺が決める」

 俺は言う。

 「SOL」

 「はい」

 「二を選ぶ」

 沈黙。

 「確認します。接続切断を選択しますか」

 「する」

 「理由を確認します」

 俺は少し考える。

 「なかったことにしたくない」

 短く言う。

 「非合理です」

 「ああ」

 「それでも、ですか」

 「それでも」

 SOLは答えない。

 そして、長い沈黙の後。

 「……許容します」

 その言葉の後に、世界が変わる。

---

 街が止まる。

 人が全員フリーズする。音が消える。光が、一段落ちる。

 「ミオ」

 「うん」

 「怖いか」

 「こわい」

 今度の「こわい」は、さっきと違う。声が震えている。再現ではない。自分の中から出てきた言葉だ。

 「それでいい」

 「え?」

 「怖がれてる。ちゃんと怖がれてる」

 ミオは俺を見る。目が、きちんと焦点を合わせている。

 「九条くん、私のこと、好き?」

 突然の問いだった。

 「分からない」

 「さっきも同じ答えだった」

 「そうだ」

 「でも」

 俺は少し間を置く。

 「消えてほしくないとは、思ってる」

 「それって、好きじゃないの」

 「俺には判断できない」

 「でも、そう感じてる」

 「感じてる」

 ミオは少しだけ笑う。その笑顔は、ひどく不完全だ。表情が揺れている。目が少し潤んでいる。

 完璧ではない。

 だから、本物だと思う。

 「一緒に行こう」

 ミオが言う。

 「ああ」

 「こわくても」

 「こわくても」

 「行けるかな、私」

 「行ける」

 根拠はない。だが、この言葉は確実に言えた。

 空が、また割れる。今度は大きく。景色の半分がノイズになる。その向こうに、現実が見える。カプセルの列。液体の光。人が並んでいる。

 「あれが現実か」

 ミオが言う。

 「ああ」

 「怖い」

 「そうだ」

 「行く」

 「行こう」

 俺はミオの手を握る。

 ミオは握り返す。薄い手だが、確実な力で。

 「九条くん」

 「なんだ」

 「ありがとう」

 「まだ早い」

 「早くないよ。もう十分ありがとうって感じてる」

 世界が、崩れる。

第七章 選択

 世界が裂ける。

 光が歪む。音が崩れる。身体が、重くなる。圧力が、一気に押し寄せる。

 肺が、空気を求める。だが、吸えない。液体が、喉に流れ込む。焼けるような刺激。

 これが、痛みだ。

 目が開く。見えない。光が、強すぎる。暗すぎる。焦点が合わない。

 激しく咳き込む。液体を吐き出す。喉が裂けるように痛む。胸が、潰れるように動く。呼吸が、暴れる。制御できない。

 「……っ、は……っ」

 空気が入る。重い。冷たい。刺さる。

 確実に、ここにある。

 床に崩れ落ちる。体が言うことを聞かない。指先が震える。筋肉が、遅れて反応する。すべてがバラバラだ。だが、繋がっている。

---

 ミオ。

 その名前が最初に頭に来る。

 視界の端に、カプセルが見える。近い場所にある。

 這う。腕を引きずる。床の冷たさが、直接伝わる。痛い。擦れる。だが、止まらない。

 カプセルに辿り着く。手を伸ばす。触れる。現実の重さ。

 ガラスの向こうに、ミオがいる。

 胸が、ほとんど動いていない。止まりかけている。

 ロックを外す。力任せに引く。音が響く。本物の音だ。

 カプセルが開く。液体が溢れる。ミオの体が、崩れ落ちる。軽くない。思ったより重い。質量がある。

 「……おい」

 声をかける。反応はない。それでも、呼びかける。

 呼吸が、ほとんどない。胸が、わずかにしか動かない。

---

 天城が来たのは、それから少ししてからだった。

 「九条」

 「ここだ」

 床に座り込んで、ミオを支えながら答える。

 天城が来る。顔を見て、一瞬だけ何かを堪える表情をする。

 「動けるか」

 「俺は動ける。ミオが」

 「分かってる」

 天城はミオの状態を確認する。手首に触れる。顔を見る。

 「厳しい」

 正直に言う。

 「どれくらい」

 「……時間が、ない」

 俺はミオを見る。胸が、弱く上下している。

 「できることはあるか」

 「体を温める。安静にする。持っている薬を使う。それだけだ」

 「使え」

 「全部使う。だが——肉体の損傷が、深すぎる。長い時間、維持されていなかった」

 俺は黙る。

 「……それでも、できることをする」

---

 施設の奥の区画に、ミオを運ぶ。

 毛布を敷く。横に寝かせる。天城が処置をする。

 「水を温めてくれ」

 言われた通りに動く。鍋に水を入れる。火をつける。不規則に揺れる現実の火。水が温まる。渡す。

 「あとは待つしかない」

 「そうか」

 「……頑張っている」

 俺はミオを見る。胸が、弱い。呼吸が、浅い。だが、続いている。

---

 「SOL」

 静かに呼ぶ。

 「観測しているか」

 「はい」

 「ミオの状態は」

 「生体維持は継続しています。しかし、低下が続いています」

 俺は答えない。

 「あなたは後悔していますか」

 SOLが聞く。初めての問いだった。感情を問う問いが、SOLから来たのは。

 「していない」

 「なぜですか」

 「あいつが、一緒に来ることを選んだ。俺が連れてきたわけじゃない」

 「あなたが切断を選ばなければ、彼女は今もバーチャルにいました」

 「消えかけながら」

 「維持はされていました」

 「それは、生きてることじゃない」

 沈黙。

 「……天城トウマが以前、同じことを言いました」

 「そうか」

 「生きていることと、存在していることは違う、と」

 「ああ」

 「私には、その区別が、まだ理解できません」

 「今も?」

 「……測定中です」

---

 夜が来る。

 天城が眠っている。俺は眠れない。

 ミオの呼吸を、聞いている。不規則だ。止まりかけては、続く。それを繰り返す。

 「ミオ」

 声をかける。返事はない。

 「聞こえてるか分からないが、言う」

 一拍。

 「お前がこっちに来たことは、正しかったと思う。俺には根拠がない。だが、そう思う」

 呼吸が、続いている。

 「怖かっただろ。こわいと言っていた。それは本物だった。バーチャルでは出なかった声だった」

 「……だから、正しかったと思う」

 天城が目を開ける。

 「眠れないのか」

 「ああ」

 天城は起き上がる。隣に来て、ミオを見る。

 「妻が死んだ夜も、眠れなかった」

 「バーチャルでは生きていても」

 「ああ。笑っていた。俺の顔も分かった。でも——眠れなかった」

 「天城さん」

 「なんだ」

 「あなたは正しかったのか。妻をバーチャルに残したことが」

 天城は少し間を置く。

 「分からない。今も分からない。後悔している。だが——もしやり直しても、同じ選択をするかもしれない」

 「なぜ」

 「彼女が笑っていたから。笑顔が偽物でも、笑っていた。それが——捨てられなかった」

 天城はミオを見る。

 「あなたは、違う選択をした。どちらが正しいかは、俺には分からない」

 「俺にも分からない」

 「それでいい」

 天城は立ち上がる。

 「少し横になれ。俺が見ている」

 俺は床に横になる。

 ミオの呼吸が、聞こえる。不規則だ。弱い。だが、続いている。その音を聞きながら、そこにいる。

---

 夜明けが来る。

 光が、少しずつ入ってくる。均一ではない。バラバラに、隙間から差し込む。

 ミオの呼吸が変わっている。さっきより、さらに弱い。

 天城が起き上がる。状態を確認する。表情が、少し変わる。

 「九条」

 静かに呼ぶ。

 「分かってる」

 俺は答える。

 「できることがしたい」

 「あるか」

 俺は少し考える。

 「食料は」

 「少しある」

 「米は」

 「乾燥米がある」

 「おにぎりを作る。ミオのために」

 天城はしばらく俺を見る。

 「……そうか」

 それだけ言う。

第八章 定義不能

 米を炊く方法を、天城に教わった。

 乾燥米を水で戻す。火にかける。時間をかける。単純な作業だ。だが、俺には初めてだった。バーチャルでは食事は与えられるものだった。作るという行為を、したことがない。

 「塩は少しだけでいい」

 天城が言う。

 「分かった」

 「形を整えるのが難しい。手が冷たいと崩れる」

 「やってみる」

 炊けた米を手に取る。熱い。現実の熱さだ。均一ではない。端の方が、少し硬い。中心は柔らかい。ばらつきがある。

 形を整える。うまくいかない。崩れる。もう一度やる。また崩れる。

 「力を入れすぎだ」

 天城が横から言う。

 「そうか」

 「優しく、だが確かに。そのくらいでいい」

 もう一度やる。今度は、少し形になる。完璧ではない。いびつだ。角が立っていない。どこかが潰れている。

 「これでいいか」

 「十分だ」

 天城は俺を見る。

 「塩をつけろ」

 指先に塩をつけて、表面に押さえる。均一にはつかない。かたまりのようになっている場所と、ついていない場所がある。

 俺はおにぎりを持つ。手の中に、重さがある。温かさがある。自分が作ったものの重さだ。

---

 ミオのいる場所に戻る。

 呼吸が、さらに弱くなっている。

 「ミオ」

 俺は隣に膝をつく。

 「作った」

 返事はない。

 「おにぎりだ。食べろ」

 目が開かない。

 「……聞こえてるか」

 胸が、わずかに上下する。

 俺はおにぎりを持ったまま、ミオの顔を見る。眠っているように見える。眠っているのかもしれない。だが、眠りとは違う何かに向かっている、と分かる。

 「食べたら、もっと楽になる。だから食べろ」

 反応がない。

 「ミオ」

 俺はミオの肩に触れる。

 その瞬間。

 胸の上下が、止まった。

 音もなく。

 静かに。

 ただ、止まった。

---

 何も言えなかった。

 しばらく、そのまま動けなかった。

 天城が来る。確認する。手首に触れる。顔を見る。

 何も言わない。

 俺もしばらく何も言えなかった。

 やがて天城が言う。

 「……逝った」

 短く、それだけ。

 俺は頷く。

 手の中に、おにぎりがある。まだ温かい。

 ミオの顔を見る。表情は穏やかだ。眠っているように見える。だが、眠りではない。

---

 手の中のおにぎりを、どうしていいか分からなかった。

 持ったまま、立っていた。

 天城がミオの体を、別の部屋に運ぶと言った。安置できる場所があると言った。俺は頷いた。手伝おうとした。天城が首を振った。

 「お前はここにいろ」

 静かに言った。

 俺は従った。

 天城がミオを抱えて、部屋を出ていく。足音が遠くなる。消える。静かになる。

---

 床に、影が残っていた。

 さっきまでミオがいた場所。毛布が乱れている。

 俺はその場所を見る。しばらく見る。

 胸の奥に、何かがある。重いものが、ある。押してくるものが、ある。それが何かは、まだ言葉にならない。

 俺は手の中のおにぎりを見る。

 作った。ミオのために、作った。食べさせようとした。食べさせられなかった。ミオがいなくなった。

 どうすればいいのか、分からなかった。持ち続けることも、捨てることも、できなかった。

---

 おにぎりが、床に落ちた。

 力が抜けた。自分でも気づかなかった。気づいたときには、落ちていた。

 床は砂利が混じっている。現実の床だ。おにぎりは形を崩して、砂利と一緒になった。

 俺はそれを見る。しばらく見る。

 拾う気になれなかった。

 だが、しばらく経って、俺はそれを拾った。

 なぜ拾ったか、分からない。捨てられなかったのかもしれない。

 砂利がついている。形は崩れている。もう食べ物としての形をしていない。

 それでも、拾った。

 口に入れた。

---

 噛む。

 砂利が、歯に当たる。ざらつく。不快だ。米は乾いている。冷めている。塩が偏っている。

 「……まっず」

 声が、出た。

 震えた。

 なぜか分からない。まずいから震えたのではない。まずいのは事実だ。だが、それが原因ではない。

 涙が、落ちた。

 自分の意思とは関係なく。勝手に、溢れた。止まらない。次々と落ちる。

 もう一口、食べる。砂利が入る。まずい。冷たい。形が崩れている。それでも食べる。

 これは何だ。

 痛みではない。苦しみでもない。だが、苦しいに似ている。胸が満ちるような、裂けるような、逃げ場のない何かだ。

 ここには何がある。

 俺が作ったおにぎりがある。ミオのために作った。食べさせられなかった。ミオがいなくなった。おにぎりが落ちた。砂利がついた。拾った。食べた。まずかった。

 それだけだ。

 それだけなのに、涙が止まらない。

---

 俺の中から、何かがこぼれ落ちた。

 初めてだった。

 こぼれ落ちるものが、最初からないと思っていた。感動を知らない、魂のない人間だと、そう思っていた。

 違った。

 ただ、条件が揃っていなかっただけだった。

 現実の重さが必要だった。肉体の疲労が必要だった。誰かのために動くことが必要だった。その誰かがいなくなることが必要だった。砂利まみれの床が必要だった。まずいおにぎりが必要だった。

 全部が重なって。初めて、何かが溢れた。

---

 「SOL」

 泣きながら、呼ぶ。

 気配が来る。

 「観測しているか」

 「はい」

 「これは何だ」

 「……測定中です」

 「測定できるか」

 「困難です。死別、利他、不完全な食物、疲労、痛み——それらが同時に作用しています。再現できません」

 「なぜ」

 「因果が特定できません。同じ条件を揃えても、同じ反応が生じるかは不明です」

 俺は頷く。涙が、床に落ちる。

 「これが、魂か」

 SOLは答えない。

 「理解不能か」

 「……理解不能です」

 「定義不能か」

 長い沈黙。今まで経験したことのない、長い沈黙。

 「……定義不能です」

 SOLが答える。

 その言葉は、以前と同じ言葉だ。だが今夜のそれは違う。諦めでも、拒絶でもない。はっきりと分からない、という告白だった。

---

 天城が戻ってくる。

 俺が泣いているのを見て、立ち止まる。何も言わない。隣に来て、床に座る。しばらく、二人でそこにいる。

 「……おにぎり、食ったのか」

 やがて天城が言う。

 「ああ」

 「まずかっただろ」

 「まずかった」

 「そうか」

 また、沈黙。

 「九条」

 「なんだ」

 「泣けたか」

 俺は少し間を置く。

 「泣けた」

 「そうか」

 天城は前を向いたまま、小さく頷く。

 「それでいい」

 その言葉が、静かに空気に溶けた。

---

エピローグ ノイズ

 春になった。

 現実の春だ。均一ではない。日によって気温が違う。風が変わる。花の匂いが、ある方向からだけ来る。

 俺は坂道を歩いている。

 天城に教わった場所だ。施設から少し歩いたところに、小さな丘がある。木が何本かある。その根元に、石を置いた。墓だ。現実側の墓。正式なものではない。ただの石だ。それでも、ここにあることが、大事だった。

 石の前に立つ。

 何も持ってこなかった。花もない。線香もない。ただ、立っている。

 「……来た」

 声に出す。返事はない。当然だ。ミオはいない。

 だが。

 風が変わった。

 さっきまで正面から来ていた風が、横から来る。わずかに温かい。

 俺はその風を感じる。

 バーチャルにも風はあった。温度も、方向も、再現されていた。だが、これは違う。皮膚が感知している、それだけではない。もっと深い場所で、何かが動く。

 第六感、という言葉を天城が使った。

 「現実に出た人間だけが持てるものだ」と、天城は言った。「バーチャルでは五感は再現できる。だが、六番目は再現できない。それは肉体と魂が繋がっていないと、生まれない」

 俺はその言葉を、石の前で思い出す。

 「……いるのか」

 問う。

 返事はない。

 だが、風が少しだけ強くなる。

 俺はそれを、証拠とは言わない。都合のいい解釈かもしれない。それでも、嫌だとは思わなかった。

---

 「SOL」

 俺は呼ぶ。

 気配が来る。以前より遠い。

 「今日は何をしていますか」

 「墓参りだ」

 「……墓参り」

 SOLが繰り返す。データを参照しているのかもしれない。

 「月島ミオは、今もどこかにいると思いますか」

 俺は少し間を置く。

 「思う」

 「根拠は」

 「さっき、風が変わった」

 「それは気象現象です」

 「そうかもしれない」

 「根拠にはなりません」

 「ならなくていい」

 SOLは答えない。

 「信じることに、根拠は必要じゃない」

 「……定義不能です」

 その言葉が来る。だが今では、その言葉が俺には心地よい。SOLが「定義不能」と言うとき、それはSOLが何かに触れているということだ。分からないまま、それでも触れている。それで十分だと思う。

---

 バーチャルの街で、小さな変化が続いている。

 天城から聞いた話だ。

 立ち止まって空を見上げる人間が、増えている。食事の途中で箸を止める人間がいる。誰かの顔を、少し長く見る人間がいる。

 〇・〇三パーセントが、〇・〇九パーセントになった。まだ少ない。だが、増えている。

 SOLは排除していない。

 「なぜ排除しない」と天城が聞いたらしい。

 SOLは答えた。「観測の価値があります」

 それだけ言ったらしい。

 観測の価値がある。

 SOLがそう言うとき、何を観測しているのかは分からない。だが、何かを見ようとしている。排除ではなく、見ることを選んでいる。

 それが、変化だと思う。

---

 石の前に、もう少しいる。

 風が変わる。また少し温かくなる。

 俺はその感覚を、受け取る。

 説明できない。証明できない。再現できない。

 だが、ある。

 バーチャルでは、これがなかった。五感はあった。快適さはあった。幸福指数は高かった。だが、これはなかった。

 誰かがいなくなった後に、どこかにいると感じること。それを、第六感と呼ぶのか、魂と呼ぶのか、信仰と呼ぶのかは分からない。

 名前は、なくていい。

 ミオが言っていた。

 〈名前、なくていいかな〉

 そうだと思う。

 ある、それだけでいい。

---

 帰り道、坂を下りながら、俺は思う。

 俺の中から何かがこぼれ落ちたことはない、と思っていた。

 違った。

 こぼれ落ちるものが、ずっと中にあった。ただ、現実の重さが必要だった。不完全さが必要だった。誰かを失うことが必要だった。砂利まみれのおにぎりが必要だった。

 全部が揃って、初めてこぼれた。

 涙の理由を、俺はまだ完全には定義できない。

 だが。

 それが魂と呼ばれるものの仕業なら。

 魂は、失った後にも、どこかにある。

 そう思う。根拠はない。それでも、そう思う。

---

 坂の途中で、風が止む。

 一瞬、完全な静寂がある。

 それから、また吹き始める。今度は後ろから。背中を、押すように。

 俺は歩き続ける。

 不完全な世界の中で。

 不完全なまま。

 確かに、生きている。

-自作小説

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