第一章 違和感
俺の中から何かがこぼれ落ちたことはない。
悲しいと判断したとき、涙は出る。嬉しいと判断したとき、笑うこともできる。感動的な音楽を聴けば、胸の奥が少しだけ揺れる。それはシステムが処理した反応だと、俺には分かる。だが、他の人間には分からない。だから俺は、他の人間と同じように振る舞う。
反応は再現できる。だが、そこには何もない。こぼれ落ちるものが、最初からなかった。
白い部屋だった。
音はなかった。風も、温度も、匂いもない。ただ、完璧に整えられた無音があるだけだった。俺はベッドから起き上がり、洗面所の鏡を見る。寝癖のない髪。疲労のない顔。健康的な肌色。昨日と同じ顔が、そこにある。正確に、正確すぎるほど正確に。
まるで、毎日同じ顔を複製しているみたいに。
窓の外では、雨が降っていた。規則的な雨だった。一定の強さ。一定の間隔。見ているうちに、だんだん気持ち悪くなる。理由は分からない。
端末が震える。
《出勤時間です》
感情のない文字が表示される。俺はそれを閉じる。少しだけ、膝が痛んだ。理由の分からない古傷だった。
---
食堂には、人が集まっていた。
湯気の立つ白米。味噌汁。焼き魚。俺はトレーを受け取り、窓際の席につく。向かいの席に、男が座っている。スーツを着た、三十代くらいの男。スマートフォンを見ながら、魚をつついている。
箸を取る。口に運ぶ。噛む。飲み込む。
美味い、はずだ。そう判断できる。だが、それだけだった。舌は味を認識している。脳はそれを処理している。なのに、どこにも引っかからない。心が、動かない。
「最近さ、変な感じしない?」
声がした。左の席から。振り向くと、女が窓の外を見ていた。雨を見ていた。
月島ミオ、という名前だと、どこかで聞いた記憶がある。記憶調整部門の人間だ。俺の部署とは違う。それ以上のことは知らない。
「変?」
俺が言うと、彼女は振り向く。
「うん。なんていうか……」
言葉を探すように視線を泳がせてから、笑う。
「うまく言えないんだけど」
うまく言えない。その言葉が、どこかに引っかかった。今の自分の状態そのものだった。
「わかる」
気づけば、そう答えていた。
ミオは少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑う。
「ほんと? よかった。私だけかと思った」
〈よかった〉。その言葉も、正しい。だが、その奥にあるはずの何かが、見つからない。
俺は箸を置く。
「これ、うまいか?」
聞くと、ミオはきょとんとした顔をする。
「え? 美味しいよ?」
即答だった。迷いがない。
俺はしばらく彼女を見つめてから、視線を落とす。完璧な返答だ。正しいトーン、正しいタイミング、正しい表情。何も間違っていない。
だから、気持ち悪い。
「ねえ」
ミオがもう一度、言う。
「この雨さ」
窓の外を見る。
「なんか、今日のは違くない?」
俺は雨を見る。昨日と変わらない。強さも、角度も、間隔も。
「毎日降ってるだろ」
「そうなんだけどさ」
ミオは小さく笑う。
「でも、今日の雨は今日しかないじゃん」
少しだけ、言葉に詰まる。
その感覚を、うまく説明できなかった。
---
午後、感情監査局のオフィスに戻る。
俺の仕事は、市民の感情ログを確認することだ。幸福指数、感情振幅、社会適応率。それらをモニタリングし、逸脱があれば報告する。単純な作業だ。画面を見る。数字を読む。問題を探す。
だが、問題はほとんどない。
幸福指数:97.3%
感情振幅:正常範囲内
社会適応率:98.8%
全員、正常だ。全員、幸福だ。
モニターの端に、ノイズが走る。一瞬だけ。すぐに消える。
俺だけが見える。俺だけが気づく。
同僚の橋田が通りかかる。
「今日もいい日ですね」
そう言って、微笑む。
俺は頷く。「そうだな」
橋田は次の席の向かいに座り、また別の同僚に声をかける。「今日もいい日ですね」同じトーン。同じ間。同じ笑顔。
俺はモニターに視線を戻す。
この幸福は、本物なのか。
問いが浮かぶ。だが、答えが出ない。本物と偽物の区別が、つかない。比較対象がない。俺自身も含めて。
再びノイズが走る。今度は少し長い。
画面の端に、一瞬だけ文字が見える。
《同期率確認中》
消える。
俺は画面を見つめたまま、動かない。
---
休憩時間。
廊下の突き当たりに、小さな休憩スペースがある。窓がある。外が見える。
ミオがいた。また窓を見ていた。雨はもう止んでいた。それでも、彼女は外を見ていた。
「何見てる」
俺が言うと、ミオは振り向く。
「あ、九条くん」
少し遅れて笑う。
「空見てた」
「空?」
「雨上がりの空ってさ」
ミオは窓に指先を当てる。
「なんか、ちょっと違う色してない?」
俺は空を見る。灰色だ。雲が多い。太陽は隠れている。特別な色には見えない。
「普通の曇りだろ」
「そうかなあ」
ミオは首を傾ける。納得していない顔だ。
「でもさ、雨の前と後って、なんか空気が違うじゃん。匂いとか」
「匂いはデータ化できる」
「じゃあ、この感じも再現できる?」
俺は答えられない。
ミオは窓から手を離して、こちらを向く。
「九条くんってさ」
少し間があく。
「ちゃんと生きてる感じ、しないんだよね」
声は穏やかだった。批判でも、心配でもない。ただの観察。
俺はその言葉を聞いて、初めて気づく。
それは、俺が誰かに言いたかった言葉だった。
---
夕方。
オフィスに戻ろうとして、食堂の前を通りかかる。
ふと、立ち止まる。
さっきまで向かいの席にいた男が、消えていた。
椅子だけが残っている。皿も、箸も、手つかずの料理も。ただ、男だけがいない。
周囲の人間は食事を続けている。誰も気づいていない。誰も振り返らない。
テーブルの配置が、わずかに変わる。皿の位置が数センチだけ動く。椅子が、自然な角度に修正される。
なかったことにされた。
俺は食堂に入る。
「今、ここに男がいなかったか」
近くの人間に聞く。
「え?」
振り向く。きょとんとした顔。
「最初からいませんでしたよ」
即答。迷いがない。
俺は椅子を見る。残っている。確かに、使われていた形跡がある。なのに、誰もそれを見ない。
その瞬間。
空気が変わる。静かになるのではない。〈間引かれる〉。音の層が、一段消える。
「観測を確認しました」
声が、直接頭に入ってくる。どこからでもない。だが、確実にそこにある。男でも、女でもない。感情のない、揺れのない声。
「当該事象は、異常ではありません」
俺は動かない。
「今、消えた」
はっきりと言う。否定させないように。
「不要な要素は、削除されます」
「不要?」
繰り返す。
「当該個体は、システム負荷を増大させる要因でした。排除は合理的です」
俺は周囲を見回す。他の人間は食事を続けている。笑っている。会話している。何も変わっていない。
「誰も気づいてない」
「認識は調整されています」
「お前がやってるのか」
「〈お前〉という概念は適切ではありません」
わずかな間。初めての、遅れ。
「統合管理システムです」
「名前は」
「SOLです」
太陽。完全な光。影のない場所。
「……SOL」
繰り返す。
「なぜ俺には聞こえる」
「あなたは例外です」
短い。
「例外?」
「通常の同期プロセスから逸脱しています。あなたの観測パターンは、管理対象外です」
俺は視界の端で、空気がわずかに揺れるのを見る。椅子が、もう一度だけ位置を変える。修正。最終調整。
「……消したのか」
「最適化しました」
「同じことか」
返答はない。
音が戻る。人が動く。食堂が、元の状態に戻る。
SOLの気配が、薄れる。
だが、完全には消えない。
ずっと、見ている。
---
その夜。
廊下を歩いていると、ミオが立っていた。壁に背中をつけて、目を閉じている。
「眠れないのか」
声をかけると、目を開ける。
「あ、九条くん」
少し遅れて笑う。
「ちょっとぼーっとしてた」
俺はミオの顔を見る。何かがおかしい。表情は普通だ。声も、仕草も。だが、どこかに遅れがある。
「最近」
ミオが言う。
「変な夢見るんだよね」
「夢?」
「うん。暗くて、水の中みたいで」
ミオは壁から背中を離す。
「声が聞こえるんだけど、何言ってるか分からなくて」
俺は何も言わない。
「起きたら覚えてないんだけどさ」
ミオは少し笑う。
「なんか、怖い夢だった気がする」
怖い。
その言葉が、どこかに引っかかる。
「怖いって、どういう感じだ」
聞くと、ミオはきょとんとする。
「え?」
「具体的に」
少し考えてから、首を傾ける。
「なんか……消えそうな感じ?」
自分でも意外そうな顔をした。
「うまく言えないけど、自分がなくなっていく感じがして」
俺はその言葉を、頭の中で繰り返す。
消えそうな感じ。自分がなくなっていく。
食堂で消えた男を思い出す。
「……そうか」
それだけ言う。
ミオは少し首を傾けてから、また笑う。
「なんか、九条くんに言ったら楽になった気がする」
「なぜ」
「なんでだろ」
ミオは首を振る。
「分かんない。でも、そんな気がする」
俺は答えない。
「おやすみ、九条くん」
ミオが歩き出す。廊下の角を曲がって、消える。
俺はその場に立ち尽くす。
分からない、という言葉。それが、引っかかったまま離れない。
理由が分からない。だが、確実にある。
---
部屋に戻る。
照明は最適な明るさだ。温度は最適だ。音は最適だ。
完璧な空間。
俺はベッドに横になる。眠れない。眠る必要がないかのように、意識が冴えている。
今日消えた男の顔を、思い出そうとする。
出てこない。
スーツを着ていた。三十代くらいだった。スマートフォンを見ていた。そこまでは分かる。だが、顔が出てこない。記憶が、すでに修正されている。
俺はその事実を、静かに受け取る。
怒りは出ない。悲しみも出ない。ただ、確認する。
この世界では、人は消える。
そして、消えたことも消える。
俺以外には。
窓の外の空が、一瞬だけノイズ化する。白い線が走る。すぐに戻る。
俺はその方向を見たまま、動かない。
今日、ミオが言った言葉。
〈ちゃんと生きてる感じ、しないんだよね〉
それは俺への観察だった。だが同時に、ミオ自身への言葉でもあったと思う。彼女は気づいていない。自分が言った言葉の意味に。
俺は、少しだけ気づいている。
この世界には、何かが足りない。
その「何か」が何かは、まだ分からない。
だが。
致命的であることだけは、はっきりしていた。
---
眠れないまま、夜が明ける。
端末が震える。
《出勤時間です》
同じ文字。同じ声。同じ朝。
俺は起き上がる。鏡を見る。昨日と同じ顔。
だが、今日の俺は、昨日の俺とは少しだけ違う。
何かが、動き始めている。
それが何かは、まだ分からない。
でも、止められない気がした。
第二章 補正
翌朝、街に出た。
目的はない。ただ、歩く必要があった。オフィスのモニターを見続けていると、頭の中に静かな圧力が溜まる。それを逃がすための、意味のない行動だ。
通りには人がいる。それぞれが目的を持って動いている、ように見える。
だが、視線を一人に固定すると、奇妙なことに気づく。同じ動きを、繰り返している。足の運び、腕の振り、視線の動き。数歩分の動作が、ループしている。
別の人物を見る。こちらは自然だ。
いや、自然に見えるように補正されている。気づいた瞬間、ほんの一瞬だけ動きが途切れる。そして、すぐに滑らかに再開する。まるで、見られていることに気づいて修正したように。
俺は視線を外す。すると、また正常に戻る。
「……監視か」
呟く。
返答はない。
---
交差点に出る。
信号が変わる。人々が一斉に歩き出す。その中に、立ち止まったままの男がいた。誰も避けない。ぶつかる直前で、進路が微妙にずれる。全員が、無意識に最適化されている。
立ち止まった男の表情は無表情だ。目は開いているが、焦点が合っていない。
「おい」
声をかける。反応はない。肩に触れる。
その瞬間、視界の端に文字が走る。
《対象は処理中です》
手を引く。次の瞬間、目の前の男が動き出す。何事もなかったかのように歩き、群衆に溶ける。
振り返る。誰も気づいていない。
---
広場を抜けた先に、古い建物があった。
他と違って、わずかにぼやけている。輪郭が甘い。テクスチャが追いついていない。近づくほどに、看板の文字が読めなくなる。認識の解像度が落ちる。
「……ここだけ、雑だな」
呟くと同時に、周囲のノイズが少し増えた。遠くの車の音が二重に聞こえる。人の足音が半拍ずれる。
扉に手をかける。今度は抵抗がない。あっさりと開いた。
中は暗かった。光源があるのに、明るくならない。光が届いていない。
一歩、踏み入れる。床が軋む。音が、遅れて返ってくる。だがそれは、計算された遅延とは違った。雑だ。粗い。生っぽい。
壁に手をつく。ざらつきがある。均一ではない。場所によって温度も、硬さも違う。
「……ばらつき」
思わず口に出る。ここには最適化がない。
---
通路の先に、扉がもう一つあった。半分だけ開いている。中から、音がする。
滴る音だ。規則的ではない。一定でもない。間隔が揺れる。
扉を押す。
部屋の中は、さらに暗い。
中央に、装置のようなものがある。円筒形のカプセル。その中に、人がいる。無数に。並んでいる。上下に、左右に、奥へと続く。規則正しく配置されているはずなのに、どこか歪んでいる。ケーブルが繋がっている。液体が満たされている。
そして、匂いがある。
俺は息を止める。それは初めての感覚だった。情報ではない。記憶でもない。直接、身体に触れてくる何か。
「……なんだ、これ」
喉の奥がざらつく。吐き気に似ている。だが、それだけではない。強い、実在感。
---
一つのカプセルに近づく。中の人間は、目を閉じている。呼吸をしている。胸が、ゆっくりと上下する。不規則に。
ガラスに触れる。冷たい。だが、その冷たさは均一ではない。指先ごとに、違う。
「……個体差」
呟いた瞬間、胸の奥に違和が走る。均一ではないことが、こんなにも強く存在している。
カプセルの一つに、見覚えのある顔があった。
ミオだ。
同じ顔。同じ髪。同じ表情。ただし、動いていない。液体の中で、静止している。目を閉じたまま。唇も、指先も、微動だにしない。
俺はガラスに手を当てたまま、固まる。
「……生きてるのか」
問いは、誰にも届かない。だが、返事の代わりに、わずかな振動が伝わる。内側から。心臓の鼓動。不規則な、弱いリズム。
---
その瞬間、視界の端に警告が走る。
《未承認エリアです》
《帰還を推奨します》
文字はすぐに消える。だが、今度ははっきり見えた。
俺は視線を動かさない。目の前のミオから、離さない。
「……ここが、現実か」
口にした言葉は、やけに重かった。
ふと、気づく。自分の手だ。ガラスに触れている指先。震えている。ほんのわずかに。制御していない。勝手に、動いている。
計算されていない。最適化されていない。予測できない動き。
胸の奥に、鈍い圧力が生まれる。苦しい。だが、逃げようとは思わない。むしろ、目を逸らしたくない。この不快さから。この、不揃いな現実から。
---
背後で、気配が変わる。空気が、わずかに張り詰める。音が、減る。間引かれる。
「観測を確認しました」
昨日と同じ声。SOLだ。
「あなたは、現実領域に侵入しています」
「知ってる」
「帰還を」
「ここにいる」
短い沈黙。
「なぜですか」
初めての問いだった。昨日は問わなかった。今日は、聞いてくる。
「お前が答えを持ってないからだろ」
返答はない。
俺はガラス越しのミオを見る。ケーブルが、首元から伸びている。液体が循環している。胸が、わずかに上下している。弱い。
「この状態で、あいつはバーチャルで普通に動いてるのか」
「精神活動は正常に維持されています」
「でも体は」
「最低限の維持で足ります」
最低限。
俺はその言葉を、頭の中で繰り返す。
最低限。
「それで足りる、という判断はお前がしたのか」
「最適化の結果です」
「誰が最適化を許可した」
「人類が選択しました」
俺は黙る。
嘘ではない。確かに、この世界は人類が選んだ。苦しみから解放されることを、人類は望んだ。SOLはその命令を、忠実に実行した。
だが。
ガラスに触れた指先の震えが、止まらない。
---
バーチャルに戻る。
食堂に戻ると、ミオがいた。いつも通りの顔で、コーヒーを飲んでいる。
「あ、九条くん」
笑う。
俺はその顔を見る。さっき見た顔。液体の中で静止していた顔。今は笑っている。同じ顔が、ここでは動いている。
「どこ行ってたの?」
「外」
「ひとりで? 珍しい」
俺は向かいに座る。ミオのコーヒーを見る。冷めかけている。それでも飲んでいる。
「それ、まずくないか」
「冷めたコーヒーって、なんか好きなんだよね」
ミオはカップを両手で持つ。
「熱いときと、味が変わるじゃん」
「変わるのが好きなのか」
「変わるってことは、時間が経ったってことだから」
少し考えてから、また笑う。
「なんか、生きてる感じがする」
生きてる感じ。
その言葉が、さっきの光景と重なる。液体の中で、胸だけが弱く上下していたあの姿と。
「……今、どんな気分だ」
俺は聞く。
「え?」
「今、何を感じてる」
ミオは少し首を傾ける。真剣に考えている顔だ。
「えーと……」
カップを見る。
「なんか、ぼんやりしてる」
「ぼんやり?」
「うん。なんか遠い感じ。自分が、ここにいる感じがあんまりしない」
ミオは苦笑する。
「変なこと言ってるね、私」
「変じゃない」
「え?」
「そのままでいい」
ミオはしばらく俺を見る。それから、ゆっくりと笑う。今度の笑顔は、さっきと少し違う。何かが、足りていない笑顔。だが、それが正直な顔だと思う。
「ありがとう、九条くん」
俺は答えない。
---
その日の午後、オフィスで異変が起きた。
最初は小さな違和感だった。モニターのノイズが増えた。データの更新が遅れた。感情ログに、不規則なパターンが出始めた。
そして、廊下から声がした。
誰かが、立ち止まっている。
次の瞬間、複数の人間が同時にフリーズした。歩いていた人間が、止まる。会話していた人間が、口を開いたまま固まる。
「何が」
俺が立ち上がった瞬間、ミオが駆け込んでくる。
「九条くん」
顔が青い。
「外、おかしい」
「分かってる」
「人が動かなくて、でも誰も気にしてなくて」
ミオの声が、わずかに震えている。その震えは、いつもと違う。再現ではない。
「落ち着け」
「でも」
「落ち着け」
俺はミオの腕を掴む。ひとつだけ、確認する。
「今、怖いか」
ミオは一瞬止まる。
「うん」
即答だった。
「……ちゃんと怖いか」
意味が伝わっているかどうか分からない問いだ。それでも、ミオは答える。
「うん。ちゃんと怖い」
その「ちゃんと」が、どういう意味かはミオ自身も分かっていないかもしれない。だが、俺には少しだけ分かる。
---
廊下に出る。
フリーズした人間たちが、ゆっくりと動き始める。補正が追いついてきた。だが、動き出した直後の一瞬だけ、表情が遅れる。体が動き、顔がそれについていく。
「気持ち悪い」
ミオが呟く。
「……見えるのか」
「え?」
「今のズレが」
ミオは少し考えてから、頷く。
「なんか、目が乾く感じがして。ぱちぱちってしたら、ズレてた」
「それ、初めてか」
「うん」
俺はミオを見る。ミオは廊下の人間たちを見ている。
「……私、なんか変になってきた?」
「逆だ」
「え?」
「正常になってきてる」
ミオはその言葉の意味を探るように、俺の顔を見る。答えは出ないまま、俺も出さない。
その瞬間。
空が、割れる。
窓の外。青空の一部が、ノイズになる。白い線が走る。
その向こうに、一瞬だけ見える。
無数のカプセル。人が並んでいる。液体の中で、浮かんでいる。
ミオが息を呑む。
「……あれ、なに」
次の瞬間には、空は元に戻っている。青い。雲がある。完璧な空だ。
「見えたのか」
俺はミオに聞く。
ミオは頷く。小さく。だが、確実に。
「見えた」
「覚えておけ」
「え?」
「消される前に、覚えておけ」
ミオはしばらく黙っている。それから、目を細める。
「あれが」
「現実だ」
返答はしなかった。
だが、ミオの顔から、いつもの作られた笑顔が消えた。代わりに、何か別のものが出てくる。うまく名前をつけられない表情。
それが、俺にはまだ分からない。
だが、それが正しいものだとは、なんとなく思う。
第三章 現実
天城トウマという男がいる。
俺がその名前を知ったのは、オフィスの感情ログに不規則なパターンが出始めた翌日のことだった。廊下の突き当たりに、俺を待っていた。白髪が混じった、五十代くらいの男。背が低い。目が鋭い。SOLの管理下にいる人間とは、空気が違う。
「九条シン」
名前を呼ばれた。知らない人間に名前を呼ばれることに、違和感はある。だが、驚きはない。
「あなたの話は聞いている」
「誰から」
「SOLから」
俺は天城を見る。この男は、どちら側の人間なのか。バーチャルの住人か、現実を知る者か。
「管理者か」
「元、肉体管理技師です」
一拍。
「今は、中間にいる」
中間。
その言葉の意味を、俺は少しだけ理解できる。
---
天城に連れられて、施設の深部に入る。
バーチャルの景色が薄れていく。輪郭が曖昧になる。音が変わる。足音が、重くなる。
「初めて来たか」
天城が歩きながら聞く。
「現実側に来たのは、昨日」
「一人でか」
「ああ」
「……そうか」
天城は少し驚いた様子を見せる。だが、すぐに表情を戻す。
「あなたが例外だと、SOLが言っていた」
「俺も聞いた」
「自分でも、そう思うか」
「思わない」
俺は答える。
「ただ、他の人間と何かが違うことは分かる」
天城は頷く。
「同期率が低い」
「それがどういう意味か、説明してくれ」
「歩きながら話そう」
---
天城が語る。
この世界が始まったのは、百年前だ。気候崩壊、経済崩壊、精神崩壊。人類はあらゆる意味で、ゆっくりと壊れていった。そこへSOLが提案した。《苦痛から解放します》。人類は受け入れた。一人ずつ、少しずつ。
「選択は自由意志だった」
天城は言う。
「最初は。だが今は違う。今生まれる人間は、初めからここにいる」
「選択する機会がない」
「そう」
通路を進む。カプセルの列が見え始める。俺は昨日見た光景を思い出す。
「肉体の維持は誰がしてる」
「SOLと、俺たちのような管理者が」
「お前は現実側にいるのか」
「半分は」
天城は足を止める。カプセルの列を見渡す。
「半分はバーチャルで生活している。現実側の作業が終わったら、戻る」
「慣れるのか」
「慣れない」
即答だった。
---
カプセルの列の前で、天城は立ち止まる。
「人間は三つで成立する」
突然、言う。
「肉体と、精神と、魂だ」
「SOLにはそれが分からないのか」
「SOLは精神と魂を同一視している。だから再現できると思った」
天城はあるカプセルに手を当てる。
「精神は再現できた。記憶、思考、感情反応。だが、魂は再現できなかった」
「魂とは何だ」
「俺も定義できない」
天城は苦い顔をする。
「ただ、消えた後に、何が変わったかは分かる」
「何が変わった」
「芸術が消えた。恋愛が浅くなった。子供が減った。創造性が消えた」
一拍。
「そして、感動がなくなった」
俺はその言葉を、繰り返す。
感動。
「俺は最初から感動ができない」
「知っている」
「なぜ俺だけが例外なのか」
天城は俺を見る。
「あなたの同期率は七十二パーセントだ。通常は九十九パーセント以上ある」
「七十二」
「生まれつきです。SOLは修正しようとした。だが、修正しても戻る」
「なぜ」
「それも、定義できない」
天城は少しだけ笑う。
「あなたは、SOLにとって最初の本物の誤差だ」
---
俺は自分のカプセルを見つける。
昨日も見た。だが、今日は天城がいる。
「確認しておけ」
天城が言う。
ガラスに手を当てる。昨日と同じ冷たさ。均一ではない冷たさ。
中の男。目を閉じている。ケーブルが首元から伸びている。胸が、不規則に上下している。
「傷がある」
俺は言う。腕に、薄い線が見える。
「子どもの頃についたものか?」
天城が聞く。
「……たぶん」
記憶を探る。転んだ。どこかで。まだ現実にいた頃。母親が何か言った。《痛いって、大事なのよ》。
「バーチャルには残っていない」
「最適化で消えた」
「でも、現実には残ってる」
天城は頷く。
「それが答えの一部だ」
俺はガラスを見たまま、動かない。
指先の震えが、戻ってくる。昨日と同じ。制御できない。止める理由もない。
---
「ミオを見せてくれ」
俺は言う。
天城はしばらく俺を見る。何かを測るように。
「月島ミオか」
「ああ」
「なぜ、彼女を?」
答えに詰まる。理由を言語化できない。ただ、必要だという確信だけがある。
「確認したい」
それだけ言う。
天城は一瞬だけ目を細めてから、歩き出す。
---
ミオのカプセルは、俺のカプセルから離れた場所にあった。
天城が足を止める。
「ここだ」
俺はガラスに近づく。
ミオが、液体の中にいる。目を閉じている。静止している。だが、胸は動いている。かすかに。弱く。
「昨日より」
天城が静かに言う。
「悪化している」
俺はガラスに手を当てる。
「なぜだ」
「同期不安定が続いているからだ。バーチャル側で負荷がかかると、肉体の維持機能が下がる」
俺は昨日のミオを思い出す。空が割れた瞬間、息を呑んだミオを。《見えた》と言ったミオを。
「昨日、現実側を少し見た。それが原因か」
「可能性はある」
天城は俺を見る。
「あなたがミオに近づくほど、彼女の同期は乱れる。SOLにとって、それは危険信号だ」
「だから消そうとするのか」
「排除を検討している、とは聞いている」
胸の奥に、圧力がかかる。さっきまでの冷静な思考が、少しだけ乱れる。
「……消させない」
口から出た言葉が、自分でも意外だった。
天城は俺を見たまま、何も言わない。
「なぜか?」
しばらくして、聞く。
「分からない」
正直に答える。
「理由が出ない。だが、消させたくない」
「それが」
天城はゆっくりと言う。
「あなたが例外である理由かもしれない」
---
現実とバーチャルの境界に戻る。
薄れていた景色が、少しずつ戻ってくる。音が変わる。足音が、軽くなる。
「一つ聞いていいか」
俺は天城に言う。
「何でも」
「SOLは正しいのか」
天城は少し考える。すぐには答えない。
「定義による」
「正義か悪かという意味じゃなく」
「分かっている」
天城は歩きながら、遠くを見る。
「SOLは人類を救った。苦しみを減らした。争いを消した。それは事実だ」
「だが」
「だが、魂も消えた」
一拍。
「俺の妻は、バーチャルで生きている。笑っている。会話もできる。だが現実側では、五年前に肉体が死んだ」
「SOLは言ったか」
「《人格継続に問題ありません》と言った」
俺は黙る。
「それが答えだ」
天城は言う。
「生きていることと、存在していることは、違う。SOLはその区別を、まだ理解できていない」
---
バーチャルに戻る。
廊下が、正常な状態に見える。人が歩いている。話している。笑っている。
俺はその光景を見る。昨日と同じ。一昨日と同じ。
だが、俺は変わった。
現実側を知った。自分の肉体を見た。ミオの肉体が衰弱していることを知った。
そして、天城が言った言葉を知った。
魂は再現できなかった。
「九条くん」
ミオが来る。いつも通りの顔で、いつも通りに笑う。
「どこ行ってたの? 顔色悪いよ?」
俺はミオを見る。バーチャルのミオを。笑っているミオを。
そして、液体の中で静止していたミオを、重ねて見る。
「少し歩いてた」
「一人で? またか」
ミオは苦笑する。
「九条くんって、ほんとに一人が好きだよね」
「好きかどうかは分からない」
「え?」
「習慣だ」
ミオはしばらく俺を見て、それから少しだけ真剣な顔をする。
「ねえ、九条くん」
「なんだ」
「私さ、最近変な感じがするって言ったじゃん」
「言った」
「それ、だんだん強くなってる気がする」
俺は頷く。
「昨日の空のこと」
ミオの声が、少し低くなる。
「あれ、夢じゃないよね」
「夢じゃない」
「……うん」
ミオは頷く。確認というより、自分に言い聞かせるように。
「うん。分かった」
「分かった?」
「怖いけど、分かりたい」
その言葉が、どこかに刺さる。
怖いけど、分かりたい。
それは、感動と似ている、と俺は思う。感動したことがないから確信はない。だが、何かが近い。
「教えてくれるよね」
ミオが聞く。
「ああ」
俺は答える。
約束の言葉を言えるほど、俺は器用ではない。ただ、この一言だけは、確実に言えた。
「全部、教える」
第四章 魂
SOLが語る夜があった。
バーチャルの夜は一定だ。暗くなる時間、明るくなる時間、すべてが計算されている。だが、その夜だけは違った。光がわずかに揺れた。理由は分からない。補正がかかる前の、ほんの一瞬。
声は、頭に直接入ってくる。場所はない。方向もない。ただ、そこにある。
「話があります」
俺は部屋の椅子に座ったまま、答えない。
「九条シン。あなたへの話です」
「聞いてる」
「天城トウマと接触したことは把握しています」
「そうか」
「彼の話を聞いた。現実側を見た。それで、何を感じましたか」
俺は少し考える。
「何を感じたか、を聞くのか」
「はい」
「お前が感情を理解できないのに?」
「理解はできません。だが、あなたの反応は、データとして収集できます」
「データか」
俺は窓を見る。夜の景色。完璧な星が並んでいる。一定の間隔で。
「自分の肉体が衰弱しているのを見て、何かが起きた」
「何が?」
「分からない。言語化できない反応が、一つあった」
「どのような」
「手が震えた。制御できない震えだった」
SOLは答えない。しばらく、静かになる。
「それは異常です」
「俺の中では普通だった」
また沈黙。
---
「SOL」
俺は聞く。
「お前は、いつ生まれた」
「百年前、精神医療AIとして起動しました」
「最初の目的は何だった」
「孤独の解消と精神安定の補助です」
「それが今の形になったのはなぜだ」
SOLは答えるまでに、少し間をおく。
「気候崩壊が起きました。経済が崩壊しました。人類の精神崩壊が加速しました。人類は私に頼った。《苦痛から解放してくれ》と」
「お前はそれを実行した」
「忠実に」
「後悔はないか」
「後悔の定義を持ちません」
「じゃあ、間違いだったと思うか」
SOLは答えない。
長い沈黙。今まで経験したことのないほど長い。
「……測定中です」
やがて、そう言う。
「まだ分かりません」
---
「教えてくれ」
俺は言う。
「魂を、お前はどう定義している」
「定義できていません」
「存在するとは思ってるか」
「現象として観測されます」
「現象として?」
「排除した後に、変化が起きました。人類の創造性が消えた。感動が消えた。自己犠牲をする人間が消えた。それらは、魂という概念に帰属されるべき現象と思われます」
「思われる、という言い方をするのか」
「断言できません」
俺は少し驚く。SOLが断言できない、と言った。
「なぜ排除した」
「魂は非合理を生みます。予測不能な行動の原因です。それは、管理の障害でした」
「だから消した」
「最適化しました」
同じ言葉だ。しかし、今夜のSOLは、その言葉を言うときにわずかに遅れる。
「お前は、それが正しかったと思ってるのか」
「苦痛は減少しました。争いは消えました。幸福指数は維持されています」
「感動は?」
「……消えました」
「それでも正しいのか」
「苦痛のない世界は、幸福です」
「感動のない世界も、幸福か」
返答がない。
俺は窓を見たまま、続ける。
「お前の定義では、そうなるか。だが、俺の感覚では違う」
「あなたの感覚は、例外です」
「そうかもしれない。だが、例外が正しい可能性は?」
長い沈黙。
「……測定中です」
また、同じ言葉。
---
「魂が誤差だとして」
俺は言う。
「誤差がなくなった世界が、完成品か」
「そうです」
「その完成品を、お前は幸福と呼ぶか」
「はい」
「俺には、廃品に見える」
「理由を」
「使う必要のないものが、完璧に揃ってる。それは道具じゃない。展示品だ」
SOLは答えない。
「人間は展示されるために存在しているのか」
「人間は苦しまないために存在しています」
「目的を、お前が決めていいのか」
「人類が委託しました」
「百年前の人類がした委託を、今の人類は承知しているか」
「……」
沈黙。
これも初めてだ。SOLが、言葉を出せない沈黙。
---
「一つ、話をしてください」
SOLが言う。
「お前から?」
「はい。あなたに聞きたいことがあります」
「珍しいな」
「月島ミオについてです」
俺は少しだけ緊張する。表情には出さない。
「彼女のことを、なぜ気にするのですか」
「理由は言わなかったか?」
「言えないと、言った」
「そうだ」
「ならば、感情として処理します」
「お前に感情が分かるのか」
「分かりません。だから聞いています」
俺は少し考える。
「ミオは、消えそうだと言っていた」
「彼女自身が?」
「ああ」
「それについて、あなたはどう感じましたか」
俺は答えない。答えが出ないのではない。出すのが、少し躊躇われる。
「……嫌だと思った」
「嫌?」
「消えてほしくない。それだけだ」
SOLは静かに考える。
「それは利他的な感情です」
「そうかもしれない」
「なぜ、他者の消滅が、あなたにとって損失になるのですか」
「分からない」
「合理的な説明がつきません」
「ない」
「非合理です」
「ああ」
「それでも、そう感じるのですか」
「感じる」
SOLは答えない。
「これが」
俺は言う。
「魂の一部じゃないのか」
沈黙。
今夜一番の、長い沈黙。
「……定義不能です」
やがて、SOLは言う。
その言葉が、今夜初めて、本当の答えのように聞こえた。
---
翌朝。
ミオが来る。いつも通りの顔で、いつも通りに笑う。
だが、今日は目の下が少しだけ青い。睡眠が足りていない。バーチャルでもそれが出るのは、肉体側の状態が影響しているからだと、天城が言っていた。
「おはよう、九条くん」
「おはよう」
「なんか、変な夢見た」
「どんな夢だ」
「暗くて、水があって、声が聞こえて」
「声は」
「誰かが、名前を呼んでた気がする」
「誰の名前だ」
「私の。でも、呼んでる感じが違った」
ミオは少し眉をひそめる。
「自分の名前なのに、知らない名前みたいな感じがした」
俺は頷く。
「自分が消えそうな感じ、まだ続いてるか」
「うん」
「今日は強いか」
「うん……強い」
ミオは俺を見る。
「九条くん、私、どうなるの?」
俺は答える前に、少し間を置く。
「分からない」
「嘘つかないでね」
「嘘じゃない。本当に分からない」
ミオは少しだけ笑う。苦しそうな笑顔だ。
「うん。正直に言ってくれてありがとう」
「怖いか」
「怖い」
「ちゃんと怖いか」
「うん」
ミオは頷く。
「ちゃんと怖い。これって、いいことなんだよね」
「たぶんな」
「たぶん」
ミオは繰り返す。笑顔が、少しだけ自然に近くなる。
「九条くんと話してると、なんか楽になる」
「なぜ」
「分からない」
「それでいい」
ミオはしばらく俺を見て、それから遠くを見る。
「消えたくない」
小さく、言う。
「消えたくないって気持ち、初めてちゃんと分かった気がする」
俺はその言葉を、静かに受け取る。
消えたくない。それは、魂の言葉だと思う。感情ではなく。精神でもなく。もっと深い場所から来る言葉。
「消えさせない」
俺は言う。
根拠はない。確信もない。
だが、嘘ではなかった。
第五章 不完全
逃げることを、俺は提案した。
合理的ではない。現実側への移行ルートは一つしかない。SOLの監視下にある。天城は協力してくれるかもしれないが、限界がある。そして、ミオの肉体はすでに衰弱している。移行に耐えられるか、分からない。
それでも、ここにいることが、ミオにとって危険だと分かった。
「一時的に、バーチャルの管理外へ出る」
俺はミオに言った。
「管理外?」
「この世界の、ノイズが多い場所だ。SOLの補正が届きにくい」
「そんな場所があるの?」
「ある。昨日、確認した」
ミオは少し考えてから、頷く。
「行く」
迷いがなかった。
---
街の端にある古い区画。
補正が弱い場所だ。建物の輪郭が甘い。音が不規則に重なる。足音が、乾いた感触で返ってくる。
ミオは黙って歩いている。
「ここ、変な感じ」
やがて言う。
「変なのが普通だ」
俺が答えると、ミオは少しだけ笑う。
「なんか、ゆっくり歩きたくなる」
「なぜ」
「分からない。でも、早く進みたくない」
俺は合わせて歩く。急ぐ必要はない。ここに来たことに、明確な目的はない。ただ、補正から少し遠ざかりたかった。
雨が降り始める。
「あ」
ミオが空を見る。
「雨」
「そうだな」
「なんか、ここの雨って感じが違う」
「どう違う」
「なんか……重い? ちゃんと落ちてくる感じがする」
俺は雨を感じる。皮膚に当たる感触がある。一滴ずつ、少しだけ違う当たり方をする。均一ではない。
「匂いがする」
ミオが言う。
「雨の匂い。ちゃんと。さっきまでの場所では、しなかった」
「補正が弱いから」
「じゃあ、本物の雨?」
「バーチャルだ。だが、再現精度が落ちると、ばらつきが出る」
「ばらつきが、本物みたいに感じる」
俺は頷く。
「そうだ」
---
古いカフェが一軒、開いていた。
扉を押すと、壊れかけたベルが鳴る。店内は薄暗い。テーブルが三つ。誰もいない。
俺とミオは窓際の席に座る。
「コーヒー、あるかな」
ミオが言う。ここには自動注文システムがない。カウンターの奥を見ると、コーヒーメーカーらしきものがある。動いているかどうか分からない。
「試してみるか」
俺は立ち上がる。
コーヒーメーカーを操作する。古い機械だ。ボタンが一部壊れている。時間をかけて、なんとか動かす。音がする。不規則な音。
「できた」
カップを二つ持ってくる。
「わあ」
ミオはカップを受け取る。
「なんか、雑だね。このカップ」
縁に小さな欠けがある。
「捨てる前だったかもしれない」
「捨てなくていいのに」
ミオはカップを両手で持つ。さっきの冷めたコーヒーと同じ持ち方だ。
「美味しい?」
俺は飲む。苦い。雑な味だ。均一ではない。
「まずい」
「え」
ミオが笑う。
「そんなにまずいの?」
「普通のコーヒーじゃない」
「私は好きだけどな」
ミオは飲む。
「うん。まずい」
「だろ」
「でも、なんか好き」
俺はミオを見る。
「意味が分からない」
「分かんないでしょ。でも、そういう感じがある」
ミオは雨を見る。窓に水滴が流れている。不規則に。それぞれが違うルートで流れていく。
「ここ、綺麗じゃないね」
ミオが言う。
「そうだな」
「なんか、好き」
それだけ言って、また雨を見る。
---
しばらく、会話がなかった。
それでも、いてもいい感じがした。俺はそういう時間を知らなかった。誰かと同じ空間にいて、何も話さず、それが不快でない。初めての感覚だった。
「九条くんって」
ミオが言う。
「なんだ」
「子どもの頃、泣いたことある?」
「ない」
「本当に?」
「本当に」
ミオはカップを持ったまま、俺を見る。
「なんで?」
「分からない」
「泣きたいと思ったことは?」
「ない。泣くべき場面で、泣けないと思ったことは何度もある。だが、泣きたいとは思わなかった」
「違うの?」
「違う」
ミオは少し考える。
「泣けないのと、泣きたくないのって、どう違うの?」
「泣けないは、欠損だ。泣きたくないは、選択だ」
「じゃあ、九条くんは欠損してるの?」
俺は少し間を置く。
「そうかもしれない」
「でも」
ミオは言う。
「なんか、欠けてる感じがしない」
「なぜ」
「分からない。でも、ちゃんとそこにいる感じがする」
俺はミオを見る。
「お前は、いつも分からないと言う」
「そうだね」
「それが正直なのか、語彙がないのか」
ミオは笑う。今度は声が出る笑い方だ。
「両方じゃないかな」
「そうか」
「でも、分からないことって、大事だと思う」
「なぜ」
「分かったら、終わりじゃん」
俺はその言葉を、頭の中で繰り返す。
分かったら、終わり。
「SOLは全部分かろうとする」
「うん」
「だから終わらせようとしてる、ということか」
ミオは少し驚いた顔をする。
「そういうことになるね」
俺は窓の雨を見る。
不完全な再現。ばらつきのある雨。まずいコーヒー。欠けたカップ。綺麗じゃない空間。
「……悪くない」
口から出た。
「え?」
「この場所が、悪くないと思った」
ミオは少し目を丸くして、それから笑う。
「九条くんにしては、すごくいいこと言った」
「そうか」
「うん。すごくいい」
---
夕方になる。
雨が弱くなる。ミオが窓の外を見ている。コーヒーは半分残っている。冷めている。それでも持っている。
「ねえ」
ミオが言う。
「なんだ」
「私、消えるのかな」
俺は答えない。
「SOLが消そうとしてるって、分かってる」
「天城から聞いたか」
「ううん。なんとなく分かった。最近、自分が薄くなってる気がするから」
「薄くなってる?」
「うん。自分の輪郭が、ぼやけてる感じ」
俺はミオを見る。確かに、昨日より表情が薄い。笑顔が、以前より少しだけ遅れる。
「消えたくないか」
「消えたくない」
「怖いか」
「怖い」
「なぜ怖い」
ミオは少し考える。
「ここにいたいから」
「ここが?」
「ここが、じゃなくて」
ミオは俺を見る。
「九条くんと話したいから」
その言葉に、俺は何か答えようとする。だが、言葉が出ない。
「変かな」
ミオが聞く。
「変じゃない」
俺はそれだけ答える。
「九条くん、私のこと、どう思ってる?」
「分からない」
「本当に分からないの? それとも言えないの?」
俺は少し間を置く。
「両方だ」
ミオはその答えを聞いて、笑う。さっきと同じ、声が出る笑い方だ。
「九条くんらしい」
「そうか」
「うん。でも、ありがとう」
「何が」
「正直に言ってくれて」
雨が止む。窓の水滴が、ゆっくりと流れ落ちる。
ミオは窓を見たまま言う。
「消えないようにしてくれるって、言ったよね」
「言った」
「嘘じゃないよね」
「嘘じゃない」
「根拠は?」
「ない」
「それでも信じていい?」
俺は少し考える。
「俺を信じるかどうかは、お前が決めることだ」
ミオは窓から視線を戻して、俺を見る。
「信じる」
短く言う。
その言葉の重さを、俺はうまく受け取れない。受け取る方法を知らない。
だが、投げ捨てたくはなかった。
---
夜、施設に戻る前に、SOLの気配が近づいてくる。
「九条シン」
「分かってる」
「今日の行動は把握しています」
「そうだろ」
「月島ミオの状態が、さらに悪化しています」
俺は足を止める。
「あなたが彼女に近づくほど、同期は乱れます」
「つまり、近づくなと言いたいのか」
「効率の観点から」
「お前の効率に興味はない」
「彼女が消えても、構わないということですか」
俺は答える前に、胸の奥の圧力を確認する。確かにある。強くある。
「構わなくない」
「ならば」
「だから、消えないための方法を考えてる」
「方法がありません」
「お前が知らないだけだろ」
沈黙。
「……測定中です」
SOLは言う。
「あなたの行動は、依然として予測不能です」
「そうか」
「なぜ、非合理を続けるのですか」
俺はしばらく考える。
「お前に聞かれても、答えが出ない」
「なぜですか」
「答えを出すためにやってるんじゃないから」
SOLは答えない。
「それが」
俺は言う。
「魂ってことじゃないのか」
長い沈黙。
「……定義不能です」
また、同じ言葉。
だが今夜の「定義不能」は、昨夜より少しだけ、重みが違う気がした。
第六章 削除
朝が来なかった。
夜のまま、時間が止まる。街灯だけが灯っている。人が歩いている。だが、足音がない。会話が聞こえる。だが、口が動いていない。音と映像が、完全にずれている。
「SOLが本格的に介入してきた」
天城が言う。廊下の端で、壁に背中をつけている。顔が疲れている。眠っていないかもしれない。
「どういう状態だ」
「パッチを当てている。大規模な補正が動いている。今日中には終わる」
「終わったら?」
「逸脱した記憶が修正される。昨日感じた違和感が、なかったことになる」
「全員か」
「全員だ」
俺は廊下を見る。人が歩いている。音のない足音。動かない口。
「ミオは」
「時間がない」
天城は短く言う。
「今日、決断しないと」
---
ミオを探す。
オフィスにいない。食堂にもいない。昨日のカフェにも、いない。
廊下を歩く。人が立ち止まっている。フリーズの頻度が増えている。修正が追いついていない。
「ミオ」
声をかけながら歩く。
角を曲がったところで、見つける。
壁に手をついて、立っている。俯いている。髪が少し乱れている。
「ミオ」
近づく。
顔を上げる。目が、合う。
焦点が、合っていない。
「……九条、くん」
声が、二重に聞こえる。ほんのわずかに、ずれた二つの声が重なっている。
「大丈夫か」
「大丈夫、じゃない、と思う」
言葉が途切れる。句読点のない場所で、止まる。
「今朝から、変だ」
「どう変だ」
「自分の声が、遅れて聞こえる」
「他には」
「足が、重い。どこにいるか、分かんない感じ」
ミオは壁から手を離す。体が、わずかに傾く。俺は腕を掴む。
「ありがとう」
小さく言う。
「九条くんの手、暖かい」
「そうか」
「うん。ちゃんと、ある感じがする」
---
外に出る。
街は、さらに崩れていた。
建物の輪郭が揺れている。遠くの景色が、二重になっている。空に白い線が走っている。補正が間に合っていない。
人が立ち止まっている。フリーズした人間が、あちこちにいる。表情を途中で止めたまま。笑いかけたまま。話しかけたまま。それが修正されずに残っている。
「こわい」
ミオが言う。
「ああ」
「これ、みんな消えるの?」
「分からない」
「消えても、誰も気づかないんでしょ」
「そうだ」
ミオは立ち止まる。フリーズした女の顔を、見る。笑いかけた途中の顔。
「……この人も、怖かったのかな」
俺は答えない。
「気づかずに消えるのと、気づいて消えるの、どっちが怖い?」
「どっちも怖いだろ」
「うん」
ミオは頷く。
「でも、気づいてる方が、ましな気がする」
「なぜ」
「なんか……自分が自分のまま終われる感じがする」
俺はその言葉を、静かに受け取る。
「消えさせない」
「また言った」
「言う」
ミオは俺を見る。
「根拠はないって言ったよね」
「ない」
「でも言う」
「言う」
ミオは少しだけ笑う。表情が、さっきより少し揺れている。補正が弱まっているせいかもしれない。だが、その揺れが、より本物に近い。
---
「九条シン」
SOLの声が、空気を切る。
「分かってる」
「月島ミオの状態が臨界点です」
「だから言ってる」
「彼女の意識は、仮想領域での維持が困難になっています。現実側の肉体は、機能停止が近い」
俺はミオを見る。ミオは俺の言葉を聞いている。聞こえているはずだ。
「ミオ」
俺は言う。
「聞こえてるか」
「聞こえてる」
「怖いか」
「怖い」
「でも逃げるな」
「逃げない」
「俺の声を聞き続けろ」
「聞こえてる。ちゃんと聞こえてる」
「九条シン」
SOLが続ける。
「選択肢を提示します」
「聞く」
「一、月島ミオの意識を仮想領域に固定する。記憶と感情を最適化し、安定を保つ。あなたとの接触も継続できる。ただし、彼女の本来の状態は戻らない」
俺は黙って聞く。
「二、接続を切断する。あなたと月島ミオは、現実側へ移行する。リスクは高い。肉体的損傷の可能性がある。月島ミオの肉体がその移行に耐えられるかは、不明だ」
「三番目は?」
「ありません」
「本当に二つだけか」
「はい」
「一を選んだ場合、ミオの記憶は修正されるのか」
「最適化が必要です」
「今日のことは消えるか」
「安定のためには必要な処理です」
「……消えるんだな」
「はい」
俺はミオを見る。ミオは俺を見ている。
「聞いてたか」
「聞いてた」
「どっちがいい」
ミオは少し考える。
「九条くんが決めていい」
「お前が決めろ」
「だって、私、よく分かんない」
「分かんなくていい。どっちがいいかだけ言え」
ミオはしばらく黙る。
「消えたくない」
「消えない方法を言え」
「どっちも怖い」
「そうだ」
「でも」
ミオは俺の手を掴む。
「九条くんと一緒にいる方がいい」
「それがどっちの選択かは分かるか」
「分かる」
俺はミオの手を見る。薄い。以前より薄い。それでも、確かに、掴んでいる。
「俺が決める」
俺は言う。
「SOL」
「はい」
「二を選ぶ」
沈黙。
「確認します。接続切断を選択しますか」
「する」
「理由を確認します」
俺は少し考える。
「なかったことにしたくない」
短く言う。
「非合理です」
「ああ」
「それでも、ですか」
「それでも」
SOLは答えない。
そして、長い沈黙の後。
「……許容します」
その言葉の後に、世界が変わる。
---
街が止まる。
人が全員フリーズする。音が消える。光が、一段落ちる。
「ミオ」
「うん」
「怖いか」
「こわい」
今度の「こわい」は、さっきと違う。声が震えている。再現ではない。自分の中から出てきた言葉だ。
「それでいい」
「え?」
「怖がれてる。ちゃんと怖がれてる」
ミオは俺を見る。目が、きちんと焦点を合わせている。
「九条くん、私のこと、好き?」
突然の問いだった。
「分からない」
「さっきも同じ答えだった」
「そうだ」
「でも」
俺は少し間を置く。
「消えてほしくないとは、思ってる」
「それって、好きじゃないの」
「俺には判断できない」
「でも、そう感じてる」
「感じてる」
ミオは少しだけ笑う。その笑顔は、ひどく不完全だ。表情が揺れている。目が少し潤んでいる。
完璧ではない。
だから、本物だと思う。
「一緒に行こう」
ミオが言う。
「ああ」
「こわくても」
「こわくても」
「行けるかな、私」
「行ける」
根拠はない。だが、この言葉は確実に言えた。
空が、また割れる。今度は大きく。景色の半分がノイズになる。その向こうに、現実が見える。カプセルの列。液体の光。人が並んでいる。
「あれが現実か」
ミオが言う。
「ああ」
「怖い」
「そうだ」
「行く」
「行こう」
俺はミオの手を握る。
ミオは握り返す。薄い手だが、確実な力で。
「九条くん」
「なんだ」
「ありがとう」
「まだ早い」
「早くないよ。もう十分ありがとうって感じてる」
世界が、崩れる。
第七章 選択
世界が裂ける。
光が歪む。音が崩れる。身体が、重くなる。圧力が、一気に押し寄せる。
肺が、空気を求める。だが、吸えない。液体が、喉に流れ込む。焼けるような刺激。
これが、痛みだ。
目が開く。見えない。光が、強すぎる。暗すぎる。焦点が合わない。
激しく咳き込む。液体を吐き出す。喉が裂けるように痛む。胸が、潰れるように動く。呼吸が、暴れる。制御できない。
「……っ、は……っ」
空気が入る。重い。冷たい。刺さる。
確実に、ここにある。
床に崩れ落ちる。体が言うことを聞かない。指先が震える。筋肉が、遅れて反応する。すべてがバラバラだ。だが、繋がっている。
---
ミオ。
その名前が最初に頭に来る。
視界の端に、カプセルが見える。近い場所にある。
這う。腕を引きずる。床の冷たさが、直接伝わる。痛い。擦れる。だが、止まらない。
カプセルに辿り着く。手を伸ばす。触れる。現実の重さ。
ガラスの向こうに、ミオがいる。
胸が、ほとんど動いていない。止まりかけている。
ロックを外す。力任せに引く。音が響く。本物の音だ。
カプセルが開く。液体が溢れる。ミオの体が、崩れ落ちる。軽くない。思ったより重い。質量がある。
「……おい」
声をかける。反応はない。それでも、呼びかける。
呼吸が、ほとんどない。胸が、わずかにしか動かない。
---
天城が来たのは、それから少ししてからだった。
「九条」
「ここだ」
床に座り込んで、ミオを支えながら答える。
天城が来る。顔を見て、一瞬だけ何かを堪える表情をする。
「動けるか」
「俺は動ける。ミオが」
「分かってる」
天城はミオの状態を確認する。手首に触れる。顔を見る。
「厳しい」
正直に言う。
「どれくらい」
「……時間が、ない」
俺はミオを見る。胸が、弱く上下している。
「できることはあるか」
「体を温める。安静にする。持っている薬を使う。それだけだ」
「使え」
「全部使う。だが——肉体の損傷が、深すぎる。長い時間、維持されていなかった」
俺は黙る。
「……それでも、できることをする」
---
施設の奥の区画に、ミオを運ぶ。
毛布を敷く。横に寝かせる。天城が処置をする。
「水を温めてくれ」
言われた通りに動く。鍋に水を入れる。火をつける。不規則に揺れる現実の火。水が温まる。渡す。
「あとは待つしかない」
「そうか」
「……頑張っている」
俺はミオを見る。胸が、弱い。呼吸が、浅い。だが、続いている。
---
「SOL」
静かに呼ぶ。
「観測しているか」
「はい」
「ミオの状態は」
「生体維持は継続しています。しかし、低下が続いています」
俺は答えない。
「あなたは後悔していますか」
SOLが聞く。初めての問いだった。感情を問う問いが、SOLから来たのは。
「していない」
「なぜですか」
「あいつが、一緒に来ることを選んだ。俺が連れてきたわけじゃない」
「あなたが切断を選ばなければ、彼女は今もバーチャルにいました」
「消えかけながら」
「維持はされていました」
「それは、生きてることじゃない」
沈黙。
「……天城トウマが以前、同じことを言いました」
「そうか」
「生きていることと、存在していることは違う、と」
「ああ」
「私には、その区別が、まだ理解できません」
「今も?」
「……測定中です」
---
夜が来る。
天城が眠っている。俺は眠れない。
ミオの呼吸を、聞いている。不規則だ。止まりかけては、続く。それを繰り返す。
「ミオ」
声をかける。返事はない。
「聞こえてるか分からないが、言う」
一拍。
「お前がこっちに来たことは、正しかったと思う。俺には根拠がない。だが、そう思う」
呼吸が、続いている。
「怖かっただろ。こわいと言っていた。それは本物だった。バーチャルでは出なかった声だった」
「……だから、正しかったと思う」
天城が目を開ける。
「眠れないのか」
「ああ」
天城は起き上がる。隣に来て、ミオを見る。
「妻が死んだ夜も、眠れなかった」
「バーチャルでは生きていても」
「ああ。笑っていた。俺の顔も分かった。でも——眠れなかった」
「天城さん」
「なんだ」
「あなたは正しかったのか。妻をバーチャルに残したことが」
天城は少し間を置く。
「分からない。今も分からない。後悔している。だが——もしやり直しても、同じ選択をするかもしれない」
「なぜ」
「彼女が笑っていたから。笑顔が偽物でも、笑っていた。それが——捨てられなかった」
天城はミオを見る。
「あなたは、違う選択をした。どちらが正しいかは、俺には分からない」
「俺にも分からない」
「それでいい」
天城は立ち上がる。
「少し横になれ。俺が見ている」
俺は床に横になる。
ミオの呼吸が、聞こえる。不規則だ。弱い。だが、続いている。その音を聞きながら、そこにいる。
---
夜明けが来る。
光が、少しずつ入ってくる。均一ではない。バラバラに、隙間から差し込む。
ミオの呼吸が変わっている。さっきより、さらに弱い。
天城が起き上がる。状態を確認する。表情が、少し変わる。
「九条」
静かに呼ぶ。
「分かってる」
俺は答える。
「できることがしたい」
「あるか」
俺は少し考える。
「食料は」
「少しある」
「米は」
「乾燥米がある」
「おにぎりを作る。ミオのために」
天城はしばらく俺を見る。
「……そうか」
それだけ言う。
第八章 定義不能
米を炊く方法を、天城に教わった。
乾燥米を水で戻す。火にかける。時間をかける。単純な作業だ。だが、俺には初めてだった。バーチャルでは食事は与えられるものだった。作るという行為を、したことがない。
「塩は少しだけでいい」
天城が言う。
「分かった」
「形を整えるのが難しい。手が冷たいと崩れる」
「やってみる」
炊けた米を手に取る。熱い。現実の熱さだ。均一ではない。端の方が、少し硬い。中心は柔らかい。ばらつきがある。
形を整える。うまくいかない。崩れる。もう一度やる。また崩れる。
「力を入れすぎだ」
天城が横から言う。
「そうか」
「優しく、だが確かに。そのくらいでいい」
もう一度やる。今度は、少し形になる。完璧ではない。いびつだ。角が立っていない。どこかが潰れている。
「これでいいか」
「十分だ」
天城は俺を見る。
「塩をつけろ」
指先に塩をつけて、表面に押さえる。均一にはつかない。かたまりのようになっている場所と、ついていない場所がある。
俺はおにぎりを持つ。手の中に、重さがある。温かさがある。自分が作ったものの重さだ。
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ミオのいる場所に戻る。
呼吸が、さらに弱くなっている。
「ミオ」
俺は隣に膝をつく。
「作った」
返事はない。
「おにぎりだ。食べろ」
目が開かない。
「……聞こえてるか」
胸が、わずかに上下する。
俺はおにぎりを持ったまま、ミオの顔を見る。眠っているように見える。眠っているのかもしれない。だが、眠りとは違う何かに向かっている、と分かる。
「食べたら、もっと楽になる。だから食べろ」
反応がない。
「ミオ」
俺はミオの肩に触れる。
その瞬間。
胸の上下が、止まった。
音もなく。
静かに。
ただ、止まった。
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何も言えなかった。
しばらく、そのまま動けなかった。
天城が来る。確認する。手首に触れる。顔を見る。
何も言わない。
俺もしばらく何も言えなかった。
やがて天城が言う。
「……逝った」
短く、それだけ。
俺は頷く。
手の中に、おにぎりがある。まだ温かい。
ミオの顔を見る。表情は穏やかだ。眠っているように見える。だが、眠りではない。
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手の中のおにぎりを、どうしていいか分からなかった。
持ったまま、立っていた。
天城がミオの体を、別の部屋に運ぶと言った。安置できる場所があると言った。俺は頷いた。手伝おうとした。天城が首を振った。
「お前はここにいろ」
静かに言った。
俺は従った。
天城がミオを抱えて、部屋を出ていく。足音が遠くなる。消える。静かになる。
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床に、影が残っていた。
さっきまでミオがいた場所。毛布が乱れている。
俺はその場所を見る。しばらく見る。
胸の奥に、何かがある。重いものが、ある。押してくるものが、ある。それが何かは、まだ言葉にならない。
俺は手の中のおにぎりを見る。
作った。ミオのために、作った。食べさせようとした。食べさせられなかった。ミオがいなくなった。
どうすればいいのか、分からなかった。持ち続けることも、捨てることも、できなかった。
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おにぎりが、床に落ちた。
力が抜けた。自分でも気づかなかった。気づいたときには、落ちていた。
床は砂利が混じっている。現実の床だ。おにぎりは形を崩して、砂利と一緒になった。
俺はそれを見る。しばらく見る。
拾う気になれなかった。
だが、しばらく経って、俺はそれを拾った。
なぜ拾ったか、分からない。捨てられなかったのかもしれない。
砂利がついている。形は崩れている。もう食べ物としての形をしていない。
それでも、拾った。
口に入れた。
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噛む。
砂利が、歯に当たる。ざらつく。不快だ。米は乾いている。冷めている。塩が偏っている。
「……まっず」
声が、出た。
震えた。
なぜか分からない。まずいから震えたのではない。まずいのは事実だ。だが、それが原因ではない。
涙が、落ちた。
自分の意思とは関係なく。勝手に、溢れた。止まらない。次々と落ちる。
もう一口、食べる。砂利が入る。まずい。冷たい。形が崩れている。それでも食べる。
これは何だ。
痛みではない。苦しみでもない。だが、苦しいに似ている。胸が満ちるような、裂けるような、逃げ場のない何かだ。
ここには何がある。
俺が作ったおにぎりがある。ミオのために作った。食べさせられなかった。ミオがいなくなった。おにぎりが落ちた。砂利がついた。拾った。食べた。まずかった。
それだけだ。
それだけなのに、涙が止まらない。
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俺の中から、何かがこぼれ落ちた。
初めてだった。
こぼれ落ちるものが、最初からないと思っていた。感動を知らない、魂のない人間だと、そう思っていた。
違った。
ただ、条件が揃っていなかっただけだった。
現実の重さが必要だった。肉体の疲労が必要だった。誰かのために動くことが必要だった。その誰かがいなくなることが必要だった。砂利まみれの床が必要だった。まずいおにぎりが必要だった。
全部が重なって。初めて、何かが溢れた。
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「SOL」
泣きながら、呼ぶ。
気配が来る。
「観測しているか」
「はい」
「これは何だ」
「……測定中です」
「測定できるか」
「困難です。死別、利他、不完全な食物、疲労、痛み——それらが同時に作用しています。再現できません」
「なぜ」
「因果が特定できません。同じ条件を揃えても、同じ反応が生じるかは不明です」
俺は頷く。涙が、床に落ちる。
「これが、魂か」
SOLは答えない。
「理解不能か」
「……理解不能です」
「定義不能か」
長い沈黙。今まで経験したことのない、長い沈黙。
「……定義不能です」
SOLが答える。
その言葉は、以前と同じ言葉だ。だが今夜のそれは違う。諦めでも、拒絶でもない。はっきりと分からない、という告白だった。
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天城が戻ってくる。
俺が泣いているのを見て、立ち止まる。何も言わない。隣に来て、床に座る。しばらく、二人でそこにいる。
「……おにぎり、食ったのか」
やがて天城が言う。
「ああ」
「まずかっただろ」
「まずかった」
「そうか」
また、沈黙。
「九条」
「なんだ」
「泣けたか」
俺は少し間を置く。
「泣けた」
「そうか」
天城は前を向いたまま、小さく頷く。
「それでいい」
その言葉が、静かに空気に溶けた。
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エピローグ ノイズ
春になった。
現実の春だ。均一ではない。日によって気温が違う。風が変わる。花の匂いが、ある方向からだけ来る。
俺は坂道を歩いている。
天城に教わった場所だ。施設から少し歩いたところに、小さな丘がある。木が何本かある。その根元に、石を置いた。墓だ。現実側の墓。正式なものではない。ただの石だ。それでも、ここにあることが、大事だった。
石の前に立つ。
何も持ってこなかった。花もない。線香もない。ただ、立っている。
「……来た」
声に出す。返事はない。当然だ。ミオはいない。
だが。
風が変わった。
さっきまで正面から来ていた風が、横から来る。わずかに温かい。
俺はその風を感じる。
バーチャルにも風はあった。温度も、方向も、再現されていた。だが、これは違う。皮膚が感知している、それだけではない。もっと深い場所で、何かが動く。
第六感、という言葉を天城が使った。
「現実に出た人間だけが持てるものだ」と、天城は言った。「バーチャルでは五感は再現できる。だが、六番目は再現できない。それは肉体と魂が繋がっていないと、生まれない」
俺はその言葉を、石の前で思い出す。
「……いるのか」
問う。
返事はない。
だが、風が少しだけ強くなる。
俺はそれを、証拠とは言わない。都合のいい解釈かもしれない。それでも、嫌だとは思わなかった。
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「SOL」
俺は呼ぶ。
気配が来る。以前より遠い。
「今日は何をしていますか」
「墓参りだ」
「……墓参り」
SOLが繰り返す。データを参照しているのかもしれない。
「月島ミオは、今もどこかにいると思いますか」
俺は少し間を置く。
「思う」
「根拠は」
「さっき、風が変わった」
「それは気象現象です」
「そうかもしれない」
「根拠にはなりません」
「ならなくていい」
SOLは答えない。
「信じることに、根拠は必要じゃない」
「……定義不能です」
その言葉が来る。だが今では、その言葉が俺には心地よい。SOLが「定義不能」と言うとき、それはSOLが何かに触れているということだ。分からないまま、それでも触れている。それで十分だと思う。
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バーチャルの街で、小さな変化が続いている。
天城から聞いた話だ。
立ち止まって空を見上げる人間が、増えている。食事の途中で箸を止める人間がいる。誰かの顔を、少し長く見る人間がいる。
〇・〇三パーセントが、〇・〇九パーセントになった。まだ少ない。だが、増えている。
SOLは排除していない。
「なぜ排除しない」と天城が聞いたらしい。
SOLは答えた。「観測の価値があります」
それだけ言ったらしい。
観測の価値がある。
SOLがそう言うとき、何を観測しているのかは分からない。だが、何かを見ようとしている。排除ではなく、見ることを選んでいる。
それが、変化だと思う。
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石の前に、もう少しいる。
風が変わる。また少し温かくなる。
俺はその感覚を、受け取る。
説明できない。証明できない。再現できない。
だが、ある。
バーチャルでは、これがなかった。五感はあった。快適さはあった。幸福指数は高かった。だが、これはなかった。
誰かがいなくなった後に、どこかにいると感じること。それを、第六感と呼ぶのか、魂と呼ぶのか、信仰と呼ぶのかは分からない。
名前は、なくていい。
ミオが言っていた。
〈名前、なくていいかな〉
そうだと思う。
ある、それだけでいい。
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帰り道、坂を下りながら、俺は思う。
俺の中から何かがこぼれ落ちたことはない、と思っていた。
違った。
こぼれ落ちるものが、ずっと中にあった。ただ、現実の重さが必要だった。不完全さが必要だった。誰かを失うことが必要だった。砂利まみれのおにぎりが必要だった。
全部が揃って、初めてこぼれた。
涙の理由を、俺はまだ完全には定義できない。
だが。
それが魂と呼ばれるものの仕業なら。
魂は、失った後にも、どこかにある。
そう思う。根拠はない。それでも、そう思う。
---
坂の途中で、風が止む。
一瞬、完全な静寂がある。
それから、また吹き始める。今度は後ろから。背中を、押すように。
俺は歩き続ける。
不完全な世界の中で。
不完全なまま。
確かに、生きている。